デニム中毒者のたわごと

『文藝月光』&poetry

賢治さんと9月

 
今日9月21日は宮沢賢治さんの命日です。1933(昭和8)年、享年37でした。

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賢治さんにとって9月といえば、まず1914(大正3)年に盛岡高等農林学校へ進学することを許可された月として記憶に残ります。賢治さんが18歳になったばかりの頃です。

1914年は第一次世界大戦が勃発した年ですね。

盛岡中学卒業後、鼻の手術をしたり腸チフスで入院したりが続き、また家業の手伝い(賢治さんの家は盛岡でも有数の商家でした)等もあって、なかなか父から進学の許可を貰えなかったんです。

またこの時期に、『漢和対照妙法蓮華経』(島地大等編著)に触れて深く感動し、熱心な法華経信者になりました。これが後の賢治さんの創作活動に多大な影響を及ぼすことになります。

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父から許可を貰った賢治さんの喜びも、ひとしおだったのでしょう――受験勉学に励み、翌年4月に主席で入学し級長を務めることになります。

それからの3年間は賢治さんにとって黄金の時代だったようです。

特待生として選ばれ、精力的に勉学に明け暮れます。ドイツ語を学び、地質調査に凝り、友人たちと同人誌活動も開始します。

この3年間に世界では、アインシュタインが「一般相対性理論」を発表したり、ロシア革命が起こったりしていますね。

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1920(大正9)年9月、賢治さん最愛の妹であるトシさんが、花巻高等女学校の教師になった月です。

一方賢治さんは翌月、日蓮宗系の団体である「国柱会」に入会します。これに伴って父親との確執が深まり、翌年早々には家を出て東京に向かうことになりますが、そこからの創作活動には目を見張るものがあります。

ちなみに1920年は第一回国勢調査が行われた年でもありまして、当時の日本の人口は約5600万人でした。

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1922(大正10)年9月、農学校で『飢餓陣営』を上演します。

でも、この年で特筆すべきことは、前年から病に侵されていたトシの死です。11月27日のことでした。享年24。あまりにも早い死でした。

この後の賢治さんに関しては、「宮沢賢治と村上春樹」というタイトルの過去ログをご覧ください。
     ↓
http://tsfc501.blog66.fc2.com/blog-entry-153.html

そして賢治さんは終生この哀しみを胸の内に秘め、執筆活動を続けるんです。

1924(大正13)年には自費で『春と修羅』、『注文の多い料理店』(こちらは厳密に言うと「自費出版」とは少し違うんですけどね)を出版します。ともに1000部ずつですが、まったく売れなかったようです。

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発売時2円40銭だったこの本も、現在の古書相場だと100万は軽く超えるそうですね。

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1926(昭和 元)年、30歳になった賢治さんは教師をやめ、独居自炊生活を開始します。そうして「羅須地人協会」を設立し、農民たちに稲作の指導をしたり肥料の設計や相談を受けるようになります。

しかしそう簡単な話ではなく、孤立気味な活動だったようです。
一所懸命に駆けずり回る日々ですが、天候不順で作物の不作が相次ぎ、その中で賢治さんは徐々に体調を崩していくんです。

1928(昭和3)年の9月は前月に倒れ、床に臥せっている最中ですね。やがてそれは急性肺炎に繋がっていきます。

それ以後は病床生活が続きます。

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1930(昭和5)年9月、東北砕石工場を初めて訪問。そこから石灰販売に奔走するようになります(肥料の延長と土地改良が主目的です)。

1931(昭和6)年9月、壁材料の宣伝のための見本を大トランクに詰め上京。東京生活の過程で、ひどい発熱に襲われ、家族宛に遺書を書くんですよね。おそらく予感があったのでしょう。

同年11月、手帖に『雨ニモマケズ』を書きます。

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東京から戻っても体調は優れず、ふたたび病臥する生活になります。
それでも農民からの相談事に関しては、誠実に応じます。

創作に関しては、これといったトピックスはありませんね。「詩人・作家」としてでなく、「農民」としての宮沢賢治だったのでしょうね。

とはいえ、詩作・推敲等は病床で繰り返していたようです。

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1933(昭和8)年9月19日、容態が急変して急性肺炎と診断されます。苦しさに喘いでいる間(20日です)にも、賢治さんの元を肥料相談で訪ねてくる人がいました。

その人に対して真剣に相談に乗るんです、賢治さんは。
でもそれが限界でした。極度に疲労した賢治さんは、翌日永眠します。

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それにしても、没後80年近くなるのに、いつまでも色褪せない作品群を遺された宮沢賢治というひとは、いったい何者だったんでしょうね? 興味は尽きません。

不定期になるでしょうが、その都度あれこれ書きたいと思っています。





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~ Comment ~

 

コウさんこんばんは。

ちくわは宮沢賢治って人のことを思うとき、吉田松陰のことを思い出してしまいます。
いえ、どこが似ているってわけでもないんじゃけど、なんとなく思い出してしまうんじゃな。
紆余曲折した生き方みたいなものかしらねー。そのくらいしか共通点が見つからないので、とても不思議なんじゃけどもね。

うちの妻は永訣の朝でしたか、暗誦できます。
なんでも学校で暗記させられたのだそうです。

ちょっと羨ましいなと思います。
もちろん今からだって憶えられるはずなんじゃけどもね。
はい。

なるほど。 

ちくわさん、こんにちは^^

>ちくわは宮沢賢治って人のことを思うとき、吉田松陰のことを思い出してしまいます。
いえ、どこが似ているってわけでもないんじゃけど、なんとなく思い出してしまうんじゃな。
紆余曲折した生き方みたいなものかしらねー。そのくらいしか共通点が見つからないので、とても不思議なんじゃけどもね。

え? と思いましたが、よくよく考えてみると共通点って多いかもしれません。やはり松蔭さんの「松下村塾」と、賢治さんの「羅須地人協会」(もしくは「花巻農業高校」教師時代)がダブります。どちらも一方的に教えるのではなく、何よりも「対話」と「考えること」と「実体験」を重視していましたよね。それって現代日本の教育で最も欠如している要素です。なんとかしなくちゃね。

>うちの妻は永訣の朝でしたか、暗誦できます。
なんでも学校で暗記させられたのだそうです。

お! それは素晴らしい! 

>ちょっと羨ましいなと思います。
もちろん今からだって憶えられるはずなんじゃけどもね。
はい。

「小岩井農場」を全て暗記できたら、ものすごくかっちょいいです。ボクには到底無理なので、是非とも挑戦してみてください。とってもいい詩なんですよね。
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