デニム中毒者のたわごと

Literature

大いなるデジャヴュ その79

 
村上春樹さんの『騎士団長殺し』(及び『みみずくは黄昏に飛びたつ』 )の続きです。

――もちろん批評も、読書の自由が前提にあって成立可能なものなんだけれど、村上さんがおっしゃる自由さというのは、目的としての自由さというか、成り立ちにおける自由さ、ということですね。

村上 音楽について書いたりするのもけっこう好きです。評論をするんじゃなくて、ただ音楽を聴く喜びについてあれこれ書く。音楽を文章でどう表すかというのはとても難しいんです。でも文章を書く訓練になります。芸というか、そういう芸を磨いていくのはけっこう好きだな。例えばシューベルトのニ長調ピアノソナタ作品八五〇をどんなふうに文章に置き換えていくか、とか。それは牡蠣フライについて書くのと同じくらい難しいことです。

――出ましたね、牡蠣フライ(笑)。

ねっ(笑)

村上 牡蠣フライがどんなふうにおいしいか、どんなふうに揚げるときにジュージューという音がおいしそうに響くかとか、そういうことを文章で描写するのも好きですね。「牡蠣フライだろ、自分で揚げてみればわかるよ」というふうには言わない。それをできるだけ文章でありありと書き込む。それは僕にとって、良い文章を書くための大事な訓練だから。

――そして、その「牡蠣フライ感」をーー牡蠣フライの実感のようなものを「文章で」作りあげる、そこが大事だと。

村上 そうそうそう。とにかく僕はその文章を読んだらもう、牡蠣フライ食べたくてしょうがなくなってくるとか、あるいはその文章を読んだらもう、ビール飲みたくてしょうがなくなってくるとか、そういう物理的な反応があるのがとにかく好きなんです。そしてそういう技術にさらにさらに磨きをかけたいという強い欲があります。とにかく物理的なフラストレーションを読者の中に埋め込んでしまいたい。「ああ、もう牡蠣フライを食べずにはいられない!」と思わせる。我慢できなくする。そういう文章が好きですね。個人的に。

――そのとき、現実の牡蠣フライを超えたい、みたいな気持ちはありますか。


村上 そうだね。テレビでおいしそうにジュージュー揚げている画面が映るじゃない。そんなんじゃなくて、とにかく字面を見ているだけで、牡蠣フライが無性に食べたくなってくるような文章を書きたい。

――牡蠣フライ超えの意志がある。

村上 うん、現実の牡蠣フライより、もっと読者をそそりたい。

――わかります。それは文章の純粋な魅力だから。

村上 そう。だから、『短編小説案内』でも、とにかくここで書評されている本を読んでみたいな、と読者に思わせたい気持ちがある。

――批評家の多くは、例えば、作品に対して、もうひとつの構造を作りあげますよね、自分の技術や読みを使って。その能力のある種の正しい自慢になっている。でも村上さんが『短編小説案内』でやったことは、村上さんが感じた作品のいいところを文章でどう表現できるか、ということで、やはり文章そのものを読者に読んでほしいという動機があるんですね。その読みは間違っているとか、ロジックが破綻しているとか、どちらの論がより強いかという、いわゆる批評一般への評価はあてはまらないと。

村上 それよりは「僕はこう思うんだけど、君たちの意見はどう?」的な、クラス内討論みたいな雰囲気が強いですね。それから僕ははっきり言って、嫌いなもの、好きじゃないものについてはあまり書きたくないんです。自分が好きなものを取り上げて、「これはいいですよ。なにしろこんな風にいいんだから」という気持ちから発した文章をできるだけ書きたい。

――そこが違うんですね。

村上 違う、そこが違う。だから、僕は書評とか映画評ってやらないようにしています。なぜかというと、自分が本当に好きなものについてしか書きたくないから。

――では好き嫌いではなく、あくまで評価の低いものに対しての言及は必要だと思いますか?

村上 思う、もちろん。でも、そこにはたとえばユーモアの感覚が必要です。赦しの感覚というか、うまくすっと「いなして」すれ違えるだけの余裕がなくてはいけない。肩がどすんとぶつかっちゃうようじゃだめです。

――それも、「文章」に収斂していく問題ですよね。

村上 うん。そのとおりです。

やっぱり含むところは大きいようですね(笑)。
次回は「善き物語は、遥か昔の洞窟の中に繋がっている」というサブタイトルのインタビューに移ります。

つづきます。



   

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