デニム中毒者のたわごと

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大いなるデジャヴュ その78

 
村上春樹さんの『騎士団長殺し』(及び『みみずくは黄昏に飛びたつ』 )の続きです。

――そうでしょうか。例えば村上さんは、『若い読者のための短編小説案内』の中で、読書をしてらっしゃいますよね。そしてここの作品の構造を指摘し、鮮やかな読みを展開されていました。あれはやっぱり読者にとっても、すごく意味があることなんですよ。たぶん村上さんにとっても。



「この小説はこうだ」とか、正解を言うみたいな表現を避けて、こういうふうにも読める、という言い方を常にされていた。次に読むときはわからない、という柔軟性の上に立って「あくまで僕はこう読んだ」と慎重に表現されていました。本の中でおっしゃっていたように、あそこでなされていたことは批評や評論ではないかもしれない。でも、ひとつのテキストの可能性を示す行為という点では、かけ離れたものではないと思う。でも、村上さんはときどき、そういうものは必要ないんだって立場をおとりになりますよね。

村上 僕が『短編小説案内』でやっているのは、結局のところひとつの「芸」みたいなものですね。こういう本を読んで、たとえばこういう読み方ができるというのを文章的に……。

――披露している。

村上 そう。披露している。だから、それは評論というよりは、何というのかな、むしろ文章芸に近い。テキストを土台にして、僕自身のあり方を語っているということになると思います。

――じゃあ、あそこで書いていらっしゃるものは、ご自身の中では文章ということになりますか。

村上 あくまで僕の文章がメインです。小説を読むという行為を文章化する。どこまで文章化できるかを確かめる。

うーむ、詭弁に聴こえるなあー(笑)

――評論ではなく、文章を書いている。

村上 うん。だから、僕はあそこで何ひとつ結論を出していませんよね。「こういう読み方もあるし、僕はこう読んだけど、こう読んでも面白いよ」みたいなことを言って、それは批評とか評論とかいうよりは、一種の語りなんだよね。

――たぶん、多くの評論家や批評家も、それとは無縁じゃないと思うんですよね。構造の指摘にしろ、テーマの指摘にしろ、自分だったらこの作品をこう読めるということのある種の置き換えで、基本的には技術の披露であるという意識があると思うんですが。

まったく同感です。

村上 でも、小説家が何かそういうものを書くのと、評論家が評論するのとでは、どうしても話がちょっと違ってきますよね。

同じだよお(笑)問題なのは「それ」が優れているかどうかだけです。

――違う感じがしますか。

村上 要するに僕がこの『短編小説案内』でやろうとしているのは、「物の見方」のひとつのサンプルを示すことなんです。小説を読むときには、こういう読み方もある、こういう読み方もある、そういう複数の視点を示しているだけであって、小説はこう読めとか、これはこういう意味なんだとか言ってるんじゃない。この本はもともとはアメリカでの講義録をベースにしています。つまり僕はこのようにこの作品を読んで、こう思うんだけど、君たちの意見を聞かせてくれないかな、という呼び水に近いものです。実際にはあそこからみんなでわいわいとにぎやかな討議が始まるわけ。それはなかなか面白かったですけどね。アメリカの大学のクラスって活発だから。でもとにかく評論じゃないな。本を読むことに僕が求めているのは、「なんとかイズム」みたいな理論武装を取っ払った自由さだから。

春樹さんの気持ちも分からなくはないけど(デビューしたての頃に相当トラウマティックな経験をされただろうことは想像に難くないです)、でもやはり、かなりバイアス掛かって感じますね。

つづきます。



   

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