デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その91

 
テス・ギャラガー「イントロダクション」の続きです。

本書の最後のセクションは、自分の病状がどんどん悪化し、死へと向かっているということを彼がだんだん自覚していく過程を扱っている。前にも述べた『GRAVY』の中で、自分が以前にほとんど死にかけていたという記憶を語ることによって(一九七六年から七七年にかけて彼はアルコール中毒のためにもう少しで命を落とすところだったのだ)、レイは今ここにある死の持つ破滅的な意味を、べつのものに置き換えている。要するに、彼はきたるべき自分の死を、かつての死からの脱出の「あかし」として捉えたのである。そして、自分は十年に渡る実り多き歳月を余分の恩恵として与えてもらったのだと考えてみれば、死というものもまた違った様相を帯びてくるものではないかという境地に彼は達したわけだ。それでもやはり、このセクションに導入の役割を果たしているチェーホフの二つのパッセージ(『虫のしらせ』と『雀の夜』)は彼の内心のパニックを示している。『医者は言った』における事実そのままの描写や、『目覚めよ』における死の「予行演習」と並んで、そこには『プロポーズ』の挑むような姿勢もあり、また最後のお別れのリハーサルとしての二篇の詩『いらない』『大枝の向こうに』もある。レイが死んでから三週間後のことだが、彼の最後の校正(私たちがアラスカに最後の旅行をする前に彼はそれを済ませておいた)を原稿に書き込んでいるときに、私ははっと気づいたのだ。レイの亡くなる前夜、私が無意識のうちに、『いらない』に記されているのとまったく同じ行動をとったのだということに。いつもなら「おやすみ」の指示を意味した三つのキスは、レイがそのまま目を覚まさないという可能性を含んでいた。「大丈夫よ」私は言った、「ゆっくりお休みなさい」そしてしばくして「愛してるわ」と。「僕も愛しているよ」と彼はそれに対して言った。「君ももうゆっくりお休み」それっきり彼はもう二度と目を覚まさなかった。そして翌朝の六時二十分、彼は息を引き取った。
セルフ・ポートレイととも言うべき『残光』の中で、「気取って」斜(はす)にくわえられた煙草は、これが最後の一瞥にしてしまった状況を茶化しているかのように見える。この作品ではカーヴァーは、もっと能力のない作家だったら、ここから哀しくも棘のある小さな帝国を切り出していったのかもしれないところを、彼にしてはぎりぎりまでアイロニーの地点に接近している。最後の詩である『おしまいの断片』の中ではその声はより高められたコーダを獲得している。生きる努力、書く努力の核心は、慈しみ愛されたいという求めの中にあったのだし、そしてその求めを自分に叶えてやっていいんだという気持ちは――「自らを愛されるものと呼ぶこと」そしてまたもっと進んで「自らをこの世界にあって愛されるものと感じること」――これでなんとか達成されたのだという認知が、そこにはある。アルコール中毒から立ちなおった人間にとって、この自己認識や、そして自らの心の中に育ませたより普遍的な愛の心は、決して小さな達成ではない。彼は自分が恩寵を受け、祝福されたのだということを承知していた。そしてまた自分は書くことによって、自分自身や作品の中で描いてきた人々が置かれていた往々にして苛酷な世界を遥かに超えたところに到達することができたし、そしてまた自分の書いたものを通してワーキング・クラスの生活が文学の一部に組み込まれることになったのだ、ということも承知していた。彼のタイプライターのそばには、こう書かれた紙片が置いてあった。「こんな思いつきに一人酔っているのを許してほしい、でも僕はいま実にこう思ったのだ。僕が書く詩はどれもみんな『幸せ』という題で呼ばれるべきだと」そして彼は、その早すぎる自らの死を決して承服しなかっにもかかわらず、長い夏の夕暮れに、我々が二人の作家として、愛する者同士として、また助け合う人間同士としてともに過ごした人生について語り合うあいだ、その感謝の念に満ちた静けさをいつも変わることなく維持しつづけた。


胸がいっぱいになる記述が続きますね。

テスのイントロダクションも、もう少しだけつづきます。



   

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