デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その84

 
村上春樹さんの解題の続きです。

『滝への新しい小径』

この詩集はカーヴァーの死後、一九八九年六月にアトランティック・マンスリー・プレス社より発売された。詩集の成立過程については、テス・ギャラガーの「イントロダクション」をお読みいただきたいが、そこにもあるように、この詩集はレイモンド・カーヴァーにとっての遺作となった。
カーヴァーが何故、人生に残された最後の力を小説にではなく、詩作に振り向けたかということについてはいくつかの説明が可能であると思うが、やはりいちばん大きいのは、先にも述べたように、彼の当時の健康状態が、何週間にもわたる継続的な集中力を要求する短篇小説の執筆作業よりは、調子の良い時期を見計らって短い息継ぎでヒットエンドラン的にこなしていくことのできる詩作の方に適していたということだろう。これはかなり現実的に大きな要因であったのではないか。
しかしそれだけではない。同時に、残された時間がだんだん少なくなり、状況が切迫するにしたがって、カーヴァーは自分の魂を語るためのヴィークルとして散文よりは韻文の方をより強く切実に必要としたのではないかと推察する。こういう荒っぽい言い方を許していただけるなら、散文=小説は彼にとってはもはや「まだるっこしかった」のではないだろうか。ストーリーの展開やら、人物設定やら、情景描写やら、会話やら、いちいちそんなことをしている暇はもう自分にはない、もっと短い分量で、もっとピュアな文章でその場その場で簡潔に自分を表していくしかないんだという心境に彼は至ったのではないだろうか。小説というのは、時間のある人間のためのものなのだ。一ヵ月先、半年先、一年先、二年先のことを計算できる人間が携わるべきものなのだ。
ここに収められた詩の中には、元気なレイモンド・カーヴァーであれば短篇小説のためにとっておいたのではないかと推察できるいくつかの「美味しい」ストーリーがある。たとえば『かろうじて』の蜂殺しの奇妙な二人組の話がそうだ。『不埒な鰻』だってディテイルを膨らましていけばずいぶん面白い話になるだろう。『レモネード』、これは間違いなく見事な短篇になる。あるいはこれは僕自身が小説家であり、カーヴァーの書く短篇小説に長い年月にわたって強い思い入れをもってきた人間だからかもしれないが、正直に言ってそれらの詩を読むと、「これは素晴らしい詩だ」と素直に感心すると同時に、心の底で「でももったいないよな」とも思ってしまうのだ。彼の詩のファンには申し訳ないが、もうちょっと長生きしてこれを短篇小説にしておいてくれていたらなあと、つい不埒に考えてしまうのだ。もし仮にレイ・カーヴァーが生きていたら、「いや、君はそう言うかもしれないけれど、これは最初から詩にしかならなかった話なんだよ」と笑って言うかもしれない。しかし、これはあくまで僕の個人的な憶測に過ぎないのだけれど、やはり彼には現実的に時間がなかったのだと思う。そしてまたそれを小説という領域に運び込むための体力もなかったのだと思う。でももちろん、僕はそれらの物語を詩というかたちにこねあげてくれたことに対して、レイ・カーヴァーに深く感謝しているし、そこには小説のかたちでは表せなかったはずの何かが確実にあることも認める。
もちろんそのようなストーリー性のある詩ばかりではない。本書にはもっと象徴的で、もっとメッセージ性の強い作品も数多く収められている。いくつかの例外はあるものの、原則的には年代順に作品が並べられているわけだが、お読みになっていただければわかるように、最後になるにしたがって――つまり死期が刻々と近づいてくるにしたがって――その作風は驚くほどシンプルになり、技巧を排し直截的になり(それらのうちのあるものは僕に晩年のピカソのスケッチを想起させる)、ある場合にはほとんど宗教的な香りさえ漂わせるようになる。
たとえば『GRAVY』における手放しの自己告白は、レイ・カーヴァーの緻密に構築された小説世界に馴染んできた読者の何人かを戸惑わせるかもしれない。それはとりあえず詩という形態をとっているものの、作者とその言葉は、すでに詩や韻文という枠組みを越えた領域にまで足を踏み入れているように僕には感じられる。それは一種のフラグメントであり、ある場合には引き伸ばされ、改行された呟きであり、思考であり、告白である。『いらない』もそうだし、巻末の一篇『おしまいの断片(フラグメント)』はわざわざ断るまでもなく文字どおりのフラグメントだ。『慈しみ』における、妻のテスに対する深い愛情のあくまで素直な発露は、小説におけるカーヴァーのプロフェッショナル的な冷徹さ痛切さとはかなり遠く離れた場所にあると言ってもいいだろう。
それらの作品群を文学的にどのように捉え評価するのかというのは読者ひとりひとりに委ねられた作業だろうし、またしかるべき時間を要する作業だろう。しかしただひとつ確実に言えるのは、そこはレイモンド・カーヴァーが五十年の人生の最後にたどり着いた場所だったということだ。そこは彼が自ら求めてきた場所ではなかったけれど、好むと好まざるとにかかわらず、彼はそこに跪いて自分の人生の最終的な意味を掬い上げないわけにはいかなかった。それが彼に残された唯一の場所であったからだ。彼にはそれ以外の状況を選び取ることができなかったからだ。
最終章に収められた『プロポーズ』から最後の『おしまいの断片』までに並んだ一連の詩(あるいは詩に似たもの)を読むことは、僕には正直言ってかなり辛かったし、また今でも辛い。その場所で彼の魂が目にしている情景は、もうすでに批評や分析を越えたものである。彼の魂と、その魂が見ている情景のあいだには、その表現と対象とのあいだには、もはや明快な区分というものがない。彼の魂はそれらの情景をそのままのかたちで静かに飲み込んでしまっている。そしてもっと大きなものが、その背後から彼の魂をそっと静かに飲み込んでいく。読者はその光景を、彼の語る言葉を通してはっきりと目撃することになる。
「この葬儀屋はそのような立場に置かれた人々の恐怖を静めることのできる人なのです。それを増長させたりはしません」とチェーホフ夫人オリガはボーイに言う。彼女はボーイに向かって死の作法を伝授しているのだ。「ずっと昔に彼はさまざまな様相と形態を持った死の姿を残らず見てしまいました。だからもうどのような死も彼を驚かせたりはしません。そこにはもうどんな秘密も隠されてはいません。今朝、私が求めているのはこのような人物によってなされる処置なのです」
「部屋はこのままにしておいて構いません。用意はもうできています。いつでも発てます。さあもう行きなさい」
レイモンド・カーヴァーはそのように去っていった。そしてそこにはどのような秘密も隠されていない。彼の最後のいくつかの詩に、どのような文学的秘密も隠されていないのと同じように。

村上春樹さんによる本書の解題はこれで終わりです。



   

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