デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その83

 
村上春樹さんの解題の続きです。

『使い走り』

“Errand”「ニューヨーカー」一九八七年六月一日号。
短篇集『象』の白眉ともいうべき作品で、レイ・カーヴァーの短篇を語るうえで抜かすことのできない一篇である。この小説を書いている時点で、彼は医者によって癌を宣告されていたし、それは事実上の死を意味していた。テス・ギャラガーの文章にもあるように、彼は決してその死を避けがたいものとして従順に受け入れてはいなかったし、力の限り闘うことを決意していたわけだけれど、それでもなお、かなりの確率で死が自分の身に訪れるであろうことを自覚していたはずだ。彼は職業的観察者として冷静に正確に自らの状況を把握していたはずだし、それほど楽天的に構えてはいなかった。これはレイ・カーヴァーにとっての最後の短篇小説であり、そのような死の知覚を抜きにして作品を語ることはできない。
この作品は読んでいただければわかるように、アントン・チェーホフの死の様子を直接の題材にとっている。そして作者はそこにまもなくーーかなりの確率でーー訪れるであろう自らの死を、いうなればシミュレーション(予行演習)のようなかたちで重ね合わせている。実を言うと、この時期にはカーヴァーはもうほとんど短篇小説を書いていない。『ブラックバード・パイ』を最後にして彼は小説から離れ、詩作に向かおうとしている。それでもなお彼は力を振り絞って筆を取り、多量のエネルギーと強い集中力を必要とする短篇小説の執筆にとりかかった。体調がすぐれず、また大きな精神的不安を抱えた作者にとって、それは身を削るようなツライ作業であったと推測される。とくに完璧な作品を生み出すために気力を傾けて彫琢に彫琢を重ねるカーヴァーのようなタイプの作家にとって、その労苦は並大抵のものではなかったはずだ。それだけカーヴァーは「やむにやまれぬ」思いでこの作品を書いたということもできよう。
テスの証言によれば、カーヴァーの創作意欲をかき立てたのはチェーホフの伝記だった。彼はそれを読み、その前世紀に生きた偉大なロシアの作家の末期の姿に、心を強く打つ何かを見出すことになったのだ。たぶん彼がそこに見出したのは、自らのイメージであったに違いない。
この作品をお読みになっていただければわかるように、レイモンド・カーヴァーとアントン・チェーホフのあいだにはいくつかの共通点がある。まず第一に、彼らは二人とも功成り名を遂げた高名な短篇小説作家であった(同時にチェーホフは劇作家であり、カーヴァーは詩人であったわけだが)。二人ともエリート階級の出身ではなく、貧しい農奴の孫であり、製材所の労働者の息子であり、おそらく彼らはそのせいでサロン的な芸術に対してはっきりと距離を置き、ある場合には敢然と背を向けることになった。彼らの生き方や小説のスタイルは極めて個人的であり、一人一党的であり、結果的に世間に広く認められはしたが、それでもやはり時流とは無縁な場所で自らのペースをしっかりと守りながら仕事を続けていた。二人とも中年になってから良き伴侶を得て、彼女たちに温かく見取られながら、比較的若くして死ぬことになった。彼らの命を奪ったのは不治の病だったが(当時の結核は不治の病で、今日の癌に相当すると言ってもいいだろう)、どちらの作家も自分の肉体の敗北を簡単に認めようとはしなかった。
これだけ多くの共通点があれば、世紀こそ違え、レイ・カーヴァーがアントン・チェーホフの中に自らのイメージを見出すのも当然のことであると言っても差しつかえあるまい。小説はいつものカーヴァーの小説とは違ったテンションを含んだまま、いわゆるニュージャーナリズム風の文体で進行していく。訳者は実際のチェーホフの死についての詳細を知らないが、話の流れから言って、おそらくこれらはみんな事実に即した描写だろう。小説の前半部はそのような淡々とした抑制された描写によって占められている。物語はホテルのボーイの出現によって生まれる。チェーホフの臨終を迎えて、医師がその偉大な作家に敬意を表するべくシャンパンを注文する。午前三時にどのような人間がシャンパンを注文するのかわからぬままに、そのボーイはシャンパンを運んでいく。実際の伝記にボーイに関する記述があるのかないのか、訳者にはわからないが(ごく簡単な記述があったのではないかというのが個人的な想像だが)、いずれにせよそのボーイはチェーホフの死というドラマのなかでは無意味な脇役である。名前もないし、特別な発言もしない。彼は普通のホテルのボーイであり、ホテルのボーイとしての決められた役割を過不足なく果たすだけである。
しかしカーヴァーは、このイノセントにして凡庸なボーイの視点を一時的に借りてくることによって、チェーホフという時代を画した一人の作家の死を、極めてリアルで等身大なものに転換してしまっている。そこには奇妙なほど物静かで鮮やかな死の手触りがある。それは本当にーーこういうのは変な言い方かもしれないがーー「本物」の死に見える。このホテルのボーイの視点から眺めたチェーホフの死という「カメラ・アングル」を思い付いたとき、作者にとってこの小説はもうほとんど完成したようなものだったのではないだろうか。いうまでもなくカーヴァーはこの小説を書きながら、自らを死にゆくチェーホフの中に重ねていたわけだが、それと同時に彼はチェーホフ=カーヴァーの死を目撃する一人の名もなきボーイの中にも自分を重ねていたのだと僕は想像する。彼は「死ぬもの」であり、それと同時にその死を「見るもの」であった。そしてそのような構造的二重性、複合性がこの作品の味わいを極めて深いものにしている。このボーイは僕に『滝への新しい小径』の中に収められた『「ポエトリー」についてのちょっとした散文』に登場する少年時代のカーヴァー自身の姿をふと思い起こさせる。一人の老人から、あたかも魂の継承のように詩の雑誌を授けられる無垢な少年の姿を。そこには再生の感覚さえかすかに漂っている。
僕がこの小説を読んでもっとも強く心打たれるのは、このようなレイモンド・カーヴァーの小説家としての一筋縄ではいかない「冷徹さ」であり「痛烈さ」である。自らの死の間際に至ってもそこには自己憐愍もなく、おののきもない。実際にはあるのかもしれないけれど、少なくとも小説的にはない。それが小説としてふさわしくないと思えば、たとえどのような立場にあれ、状況にあれ、彼はそのような感情をきっぱりと排除することができたのだ。

カーヴァーの「小説家としての姿勢」を教えられたような気がしますね。

つづきます。



   

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