デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その78

 
村上春樹さんの解題の続きです。

『メヌード』

“Menudo”「グランタ」一九八七年春季号。
メキシコを旅行したときにこのメヌードという料理を食べる機会は何度かあったのだが、訳者は残念ながら内蔵料理が苦手なのでパスすることになった。でももし料理をテーマにしたアンソロジーを作るような機会があったら、この作品は絶対に抜かせないと思っている。それくらいメヌードという料理が美味しそうに書けている(思い返してみると、レイ・カーヴァーの小説には料理が美味しそうに描かれている例があまり見当たらない)。その印象がけっこう強烈なので、この小説は「ほら、あのメヌードっていう、主人公が食べ逃した美味しそうなメキシコ料理が出てくる話」で終わってしまいそうなところがある。中年男が近所の奥さんと浮気して、それがばれて家庭崩壊の瀬戸際に立たされているという肝心の話の本筋はあるいはすぐには思い出せないかもしれない。でも画家のアルフレードが台所に立ってぐつぐつと煮ているメヌードのその音や匂いが、いわば失われた救済として、ありありと感覚的に(視覚的に、聴覚的に、嗅覚的に)読み手に伝わってくるところがこの話のミソじゃないかと僕は思う。あらためて読み返してみると、意外にそれほど長いエピソードではないのだが。
それからラジオを買ってやらなかったお母さんがそのまま道端でぽっくり死んでしまうというせつないエピソードも、けっこう強烈な印象を残す。本筋を忘れても話がちゃんと成立してしまうという「ばらけ」の芸にはたしかにうならされる。短篇小説としても間違いなく完成の域に達している。名手という表現はカーヴァーの作風には馴染まないが、これほどうまく短篇が書ける人はざらにはいない。しかし、それと同時に、この作品を読みながら、レイ・カーヴァー的なプロット(家庭崩壊、窮地に立たされた中年男の主人公)がすでにひとつの小説スタイルとして、トレードマークとしてそこに確立してしまっていることに、我々は気づくことになる。作家は常に自分のスタイルの完成と、その解体という相反する作業を同時に進行させていかなくてはならないわけだが、そういう意味ではカーヴァーはちょっとむずかしいところに差しかかっていたと言うこともできるだろう。そのむずかしさが『誰かは知らないが、このベッドに寝ていた人が』や、この『メヌード』に漂っている。ひとつのスタイルが完成のポイントを越えたあと、自然に熟れてばらけるということももちろんあるわけだが、たぶんカーヴァーは半ば意識的、半ば本能的にこの「ばらけ」を突破口にして、新しい自己のスタイルへの模索を続けていたのではないかと訳者は推察する。その模索はあとの『ブラックバード・パイ』や『使い走り』といった作品の中でたしかな結実を見せはじめるわけだが。


なるほど「ばらけ」ねー。

たしかに春樹さんの言うようにカーヴァーは彼独自のスタイルの完成に近づいていたのかもしれません(でも、ボクはまたそれは「慣性」でもあったんじゃないかと思っています。あるいは「陥穽」かもしれませんね)。そういう意味では現在の「村上春樹」という稀有な作家が陥っているのも同じことのような気がしますーーつまり近年の多くの作品が過去の作品の同工異曲であり、拡大再生産(もしくは「マイナーチェンジ」)に過ぎないんじゃないか、と。

もちろん、そうでないことを願ってはいるのですが……。

つづきます。



   

~ Comment ~

わたしには、 

カーヴァーの全体像がつかめていなので、ただ純粋におもしろかった、という感想だけを持ったよろしい読者(?たぶん?)のまおまおです。
というか単純に読めた作品数がまだまだ少ないっていうこともあるかもしれないです。手元にある作品を順番に読んでいきます♪たのしい。

日常どこにでもいてありふれた生活を送っているとみなされている人間なのに、決定的に壊れてたところを持っていて、見る人が見ればものすごく危うい状況にある。外の人々はあくまでも他人事として彼らの目の前を素通りしていくし、彼らも薄くて頑丈な隔たりを外の人たちに感じている。ほかの当たり前に享受できるささやかなことさえ、じぶんは取り逃がしてしまうなんて。だけど、そのささやかなことは生きていれば幾らでも代替えできるような小さな事柄で、そうやって、砂がさらさら落ちるように少しずつ取りこぼしていく感じ。(←というのが、カーヴァーのイメージ)
たとえば、メヌードが二度と食べられないかもしれないとか、当たり前の夫婦のやり取りが何年経っても出来ない、とか。これって、当たり前に出来ているひとには分かんないんじゃないかって、思うわけなんです、読者のわたし。
妻たちやお母さん優しく出来ないで気持ちがひきつっているんだな。(たぶん、そういう気質がいろんなことを招いているんだろうけども)そういうことって、多かれ少なかれあるんだろうな。

もしかして、これから順に読んで行ったら、陥りに気がつくのかな。

ああ、あとコウさん、最新の記事の日付が5日になってます。これってどういう仕組みですか!!!

気のせいです(笑) 

まおまおさん、おはようございます^^

>わたしには、 カーヴァーの全体像がつかめていなので、ただ純粋におもしろかった、という感想だけを持ったよろしい読者(?たぶん?)のまおまおです。

正しい読者です。

>というか単純に読めた作品数がまだまだ少ないっていうこともあるかもしれないです。手元にある作品を順番に読んでいきます♪たのしい。

楽しいのが何より一番です。

>日常どこにでもいてありふれた生活を送っているとみなされている人間なのに、決定的に壊れてたところを持っていて、見る人が見ればものすごく危うい状況にある。外の人々はあくまでも他人事として彼らの目の前を素通りしていくし、彼らも薄くて頑丈な隔たりを外の人たちに感じている。ほかの当たり前に享受できるささやかなことさえ、じぶんは取り逃がしてしまうなんて。だけど、そのささやかなことは生きていれば幾らでも代替えできるような小さな事柄で、そうやって、砂がさらさら落ちるように少しずつ取りこぼしていく感じ。(←というのが、カーヴァーのイメージ)

はい。

>たとえば、メヌードが二度と食べられないかもしれないとか、当たり前の夫婦のやり取りが何年経っても出来ない、とか。これって、当たり前に出来ているひとには分かんないんじゃないかって、思うわけなんです、読者のわたし。
妻たちやお母さん優しく出来ないで気持ちがひきつっているんだな。(たぶん、そういう気質がいろんなことを招いているんだろうけども)そういうことって、多かれ少なかれあるんだろうな。

もっともだと思います。

>もしかして、これから順に読んで行ったら、陥りに気がつくのかな。

「陥り」なんてことは全然ないと思いますが、あるいは感じるものは変わってくるかもしれませんね。そういうのが小説の面白さだと思います。

>ああ、あとコウさん、最新の記事の日付が5日になってます。これってどういう仕組みですか!!!

蜃気楼という謎の仕組みです(笑)
ご指摘ありがとうございます。単なる予約投稿のミスでした^^;
管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

~ Trackback ~

トラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)