デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その77

 
村上春樹さんの解題の続きです。

『親密さ』

“Intimacy”「エスクァイア」一九八八年八月号。

この作品については以前も語ったことがあります
これもかなりハードな話で、僕はなかなか翻訳する気になれず、最後の最後までとっておいた。もうこれ以外に訳すべき短篇がない(初期の習作は別にして)という地点に至って、心を決めて手をつけた次第だ。翻訳者がこんなことを言うのは適当ではないのかもしれないけれど、作品としての価値はともかく、個人的にはこの短篇小説は好きではない。まったく好きではない。何度読んでも、読むたびにたまらなく痛々して気持ちになってくる。もちろん私小説ではないから、実際にあった話ではないだろうが、レイ・カーヴァーの私生活を知る人なら、書かれた内容があまりにもリアルで克明に現実に即しているので、言葉を失って深く考え込むことになる。最初に「エスクァイア」でこの作品を読んだとき、いったいレイモンド・カーヴァーに何が起こっているんだろうと僕は真剣に心配した。たしかにカーヴァーはずっと「自分の人生に題材をとった」作品を書いてきた。しかし決して自己告白的ではなかった。そこには抗いがたい物語への意思があり、その力強いパルスがマテリアルの生々しさや、安易なモラルへの拘泥(あるいは非モラルへの拘泥)を凌駕していた。そこにカーヴァーという作家の矜持があった。カーヴァーは決してスタイリッシュな作家として知られていたわけではないが、実は極めて自覚的でスタイリッシュな文筆家であったと僕は思っている。恥ずかしさを進んでさらけ出しながらも、ある種の恥ずかしさにはどうしても耐えることのできない作家であった。切り結びあいの中で、「ここまでは相手に切らせておいても、ここから先は切らせない」という明確な見切りのつけられる人だった。そしてその微妙な命懸けのディスティンクションhttp://ejje.weblio.jp/content/distinctionの中に自己表現の核を見出した人だった。でもこの『親密さ』においては、彼はそのラインを大きく跨いでしまっている。ずるずるにほどいてしまっている。それが意識的なものなのか、そうではないものなのか、最初に読んだときにはまったく見当がつかなかった。
そしてその二年後に、彼が亡くなったという知らせを聞いたときに最初に頭に浮かんだのは、やはりこの小説のことだった。それくらい僕にとっては、この作品はショックだったのだ。もちろん今では、この小説を書くにあたってレイ・カーヴァーが意識的に自己のディスティンクションを破壊したのだということが推察できる。これはやはり彼にとっての信仰告白に近い特殊な意味合いをもつ様品だったのだろう。日本語で言うと「業(ごう)」という表現がぴったりくるかもしれない。彼は生きているうちにこの作品をどうしても書かずにはいられなかったのだと思う。そこには異様なばかりに激しく、死の影がしみこんでいるように思えるのだが。


とてもよく理解できます。でもやはり、春樹さんとは違ってボクはこの作品が好きですし、学ぶところも大きいです。

つづきます。



   

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