デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その71

 
「焔――文学と影響について」の続きです。

これから、わたしの人生に影響を及ぼした二人の人物について、少し述べようと思う。一人はジョン・ガードナー。一九五八年秋に、わたしがチコ州立大学の初級創作クラスを履修したときの先生だった。わたしたち夫婦は、子どもを連れてワシントン州ヤキマからカリフォルニア州パラダイスというところに移ってきたばかりだった。チコから約十マイルほど上がった山の麓で、家が安く借りられる見込みがあった。もちろん、カリフォルニアに移り住むことは、わたしたちにとって大きな冒険だった(当時、そしてそれから後もずっと、わたしたちはいつも冒険に出ていた)。もちろん、わたしは家族の生活費を稼がねばならなかったが、それだけでなくパートタイムの学生として、大学に席を置くつもりでいた。
ガードナーはアイオワ大学を出たばかりであり、博士号を有し、その当時、未刊の小説と短編を数冊ほど抱えていた。わたしは、出版されていようといまいと、それまで小説を書いたことのある人間に出会ったことはなかった。第一日目の授業に、ガードナーはわたしたちを外に連れ出し、芝生の上に腰を下ろさせた。たぶん、学生は六、七人だったと思う。ガードナーは歩きながら、愛読している作家の名前を訊いてまわった。どんな名前が出たか、まったく思い出せないが、きっとどれ一つとして適切な名前はなかったにちがいない。ガードナーは、はっきりといった。きみたちは誰一人として、本物の作家になるための資質を備えていないように思える、と――見たところ、きみたちは誰一人として、作家になるために必要な「焔」を持っていないようだ、と。しかし、かれは続けて、わたしたちのためにできる限りのことはするつもりだといった。もっとも、かれがその成果をあまり期待していないのは、明らかだったが……。とはいえ、その口調には、旅の第一歩を踏み出したというニュアンスもないではなかったので、わたしたちは置いていかれないように、しっかり頑張ろうと思ったのである。
また別の授業のことも覚えている。発行部数の多い雑誌については、鼻であしらうだけで、一言も述べるつもりはないと、ガードナーはいった。いわゆる「リトル・マガジン」、つまり文芸季刊誌を山ほど持ってきて、それらの雑誌の作品を読むようにいった。かれにいわせると、それらの雑誌にはアメリカの小説のなかの最高傑作が、詩のすべてが載っているのだ。かれは、さらに続けていった。創作方法を教えるとともに、どの作家を読むべきかを教えるのも自分の任務である、と。かれは、驚くほど傲慢だった。わたしたちに、自分が読むに値すると考えた雑誌のリストを渡し、一緒に上から順に見ていき、一つひとつの雑誌にコメントを加えた。もちろん、これらの雑誌のことを耳にしたことがある者など、誰一人としていなかった。そのとき初めて、わたしもその存在を知ったのである。このときに、あるいは、ひょっとして何かの会のときだったかもしれないが、ガードナーは、生まれつきの作家もいれば、つくられる作家もいるといった(このことは真実だろうか。残念ながら、わたしには、未だに分からない。たぶん、創作科で教える作家で、その仕事に真剣に取り組んでいる者は誰でも、ある程度はこのことを信じなければならないだろう。音楽家や作曲家や視覚芸術家に見習いがあるならば、作家にあってもいいではないか)。わたしはそのとき何にでも感動しやすかったかもしれないし、それはいまでも変わらないが、ガードナーの一挙手一投足にまったく感銘してばかりいた。かれはわたしの習作を手に取り、わたしと一緒に読み返してくれた。自分が教えようとしていることを――いいたいことをいうのには、それにふさわしい、適切な言葉を使うことがどんなに大切であるかを――わたしに分からせようとして、繰り返し繰り返し語る、そんな辛抱強いガードナーの姿が、いまでも目に浮かぶ。曖昧な表現、ぼやけた表現は一つもあってはならない。曇りガラスのような散文ではだめだ。日常の言葉、正常な談話の言葉、わたしたちが互いに交わす言葉――こうしか、いいようがない――を使う重要性を、耳にたこができるほど教え込まれたのである。
最近、ニューヨーク州イサカで夕食をともにしたとき、かつてかれの研究室で行われた授業のことを話題に出してみた。ガードナーは、当時わたしに教えたことは全部まちがっていたと答えた。かれ曰く、「いろいろ、当時とは考えが変わったんだ」と。いまわたしに分かるのは、あの当時ガードナーがしてくれたアドバイスこそ、あのときの自分になくてはならないものだった、ということだけだ。ガードナーは素晴らしい先生だった。それがちょうどあの時代だったということが――親身にわたしのことを思ってくれ、腰を落ち着け、一緒に原稿を読み返してくれる先生に巡り会えたということが――最高に幸せだった。わたしには何か大事なことが、問題にすべき何かが起こっているように思えた。いいたいことだけを、正確にいうことが――つまり、「文学的な」表現や、「似面非」詩的言語を使わないということが――どれほど大切かを、ガードナーは手取り足取り教えてくれた。たとえば、“wing of a meadow lark ”(マキバドリの翼)と“meadow lark’s wing” (マキバドリの翼)といったような表現のちがいについて説明してくれた。ほら、音の響きと感じ方がちがわないだろうか。ほかにも、たとえば、“eatth”(地)という言葉と“ground”(土)という言葉についても、ガードナーにいわせれば、“ground”は“ground”で、その意味は「土」とか泥とか、そういった類のものでしかない。だが、“eatth”といえば、まったく別物になってしまう。この言葉には、また別の意味連鎖がついてくるのである。また、表現を収縮させるさせることも教えられた。いいたいことをどう表現したらいいか、またそうするために最小限の言葉をどう使ったらいいかを示してくれたのだ。短編小説では、すべてが重要であるということが分かったのも、ガードナーのお蔭である。コンマやピリオドをどこにつけるべきであるかも、また大切なことなのだ。あれやこれやのこと――週末にそこで執筆ができるようにと研究室の鍵を貸してくれたこと、わたしの厚かましい態度やいろいろな戯言に辛抱してくれたこと――に対して、わたしは感謝の気持ちを忘れないだろう。わたしは、確実にガードナーから影響を受けた。


それから十年後、わたしはまだ生きながらえていた。子どもたちとともに生きながらえて、時折、短編や詩を書いていた。折々の短編の一つを『エスクァイア』誌に送り、そうすることでしばらくのあいだ忘れてしまいたいと思った。しかし、その短編は、当時、小説部門の編集者だったゴードン・リッシュの手紙と一緒に、突き返されてきた。手紙には、作品を送り返すとだけ書いてあった。送り返すのを詫びるところはなかった。「いやいや」送り返すのではなく、ただ送り返すが、ほかの作品があれば、それも見たいとあった。そこで、わたしは手元にあった全作品を素早く送りつけたが、かれも同じくらい素早く送り返してきたのだった。ただし、今度は、親切な手紙がわたしの送りつけた作品にそえてあった。
あの頃、つまり一九七〇年代初頭、わたしは家族とともにパロアルトに住んでいた。わたしはまだ三十代前半であり、初めてホワイト・カラーの職――教科書会社の編集者だった――に就けたのだった。わたしたちは、裏手に古い車庫がある家に住んでいた。前の借家人が車庫に遊戯室をつくってあったので、わたしは毎晩夕食後にそこに出かけていき、執筆しようとした。そんな場合の方が多いのだが、筆が進まないときは、家のなかで絶えず繰りひろげられているように思える喧騒から解放されたことに感謝しつつ、そこにしばらく独りでじっとしていた。そのとき、わたしは“The Neighbors”(「隣人たち」)という短編を執筆中だった。ついに書き上げて、リッシュのもとに送ると、ほとんど即座に、返事の手紙が送られてきて、大いに気に入った旨が書かれていた。つまり、タイトルをただの“Neighbors”に変えようとしていること、その作品を雑誌に掲載するよう推薦していることなどが書かれていたのだ。その短編が買い取られ、実際に雑誌に載ったとき、すべてが変わるように思えた。『エスクァイア』誌は、すぐに別の短編を買い取り、それからは次つぎに載せてくれた。ちょうどその頃、ジェイムズ・ディッキーが詩部門の編集者に就任して、わたしの詩を掲載するために受理してくれた。しかし、ある意味では、事態は少しも好転していないように思えた。子どもたちが、ちょうどいま聞こえてくる競馬場の観客のように、一斉に騒ぎ立てていた。わたしを生きたまま喰い殺そうとしていたのだ。わたしの人生はすぐにまた進路変更を、それも急転回の変更を余儀なくされ、それから脇道にそれて、ぴたりと止まってしまった。後戻りも前進もできず、一歩も進めなくなってしまったのである。ちょうどそんな時期に、リッシュがいくつかの短編を集めて、マグロウ・ヒル社に持ち込んでくれ、出版の運びになった。そのあいだも、わたしはまだ脇道にそれたままで、どの方向にも進めないでいた。かつて焔があったにしても、そのときは、すでに消えてしまっていたのだった。
影響を受けた人たち。ジョン・ガードナーとゴードン・リッシュ。わたしはこの二人に、いわば償却できないほどの手形を渡してしまっている。だが、子どもたちについても同じである。我が子の影響こそが、主たる影響だった。かれらこそが、わたしの人生と文学を突き動かし、その形式に寄与した張本人なのだ。お分かりだろうが、未だわたしは子どもたちの影響下にある。ただ、いまでは晴れの日が比較的多くなり、静穏が似合うようになったが……。


この「焔」というエッセイが書かれたのは一九八二年のことです。恩師と慕ったジョン・ガードナーはこの秋交通事故で亡くなっていますし、その後最初の夫人と別居することにもなります(皮肉なことですが……)。そういう視点で読み直すとまた感慨深いものがあります。

以上で越川芳明訳「焔」は今回で終わります(興味を持たれた方は村上春樹訳と比べてみてください――カーヴァーが言っていたように、言葉のチョイスにそれぞれの違いが窺われて面白いです)。

今回シリーズは尚もつづきます。



   

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