デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その69

 
「焔――文学と影響について」の続きです。

ヘンリー・ミラーが四十代で、『北回帰線』を執筆していたときに――ついでながら、これは大好きな本だ――貸し部屋で書くことについて語っている。いつ何時いま腰を下ろしている椅子が持っていかれてしまい、そのため執筆を中断せざるを得なくなるか分からなかったらしい。



つい最近まで、わたしも絶えずこうした事態につきまとわれていた。というのも、思い出す限り、十代のときから、いまにも椅子を奪われるかもしれないということが、つねにわたしの悩みだったからだ。何年ものあいだ、わたしたち夫婦は、雨露をしのぐ屋根とその日のパンやミルクを確保しようとして、すれちがいの生活を強いられた。金はない。目につく、つまり、金になる技術もない――ぎりぎりに暮らせるだけの食いぶちを稼ぐのがやっとで。それに、学歴も。もっとも、二人ともひどく切望していたのだが……。学歴、これさえあれば未来が開け、職が手に入り、わたしたち夫婦にとっても、子供たちにとっても望ましい生活ができるだろうと思っていたのだ。わたしたち夫婦には、大きな夢があった。謙虚に、一所懸命働くことはもちろんのこと、その気になれば、何でもできると思っていたのである。だが、それは思いちがいだった。
いまこそ告げなければならないだろうが、わたしの人生と文学が直接的にも間接的にも受けた影響で、唯一最大のものは、わたしの二人の子どものそれだったのである。二人は、わたしが二十歳になる前に生まれ、そのときから同じ屋根の下で暮らしてきたが――合わせて、ほぼ一九年間――わたしの人生において、ずしりと重く、しばしば破壊的なかれらの影響力の及ばない局面はなかった。
あるエッセイのなかで、フラナリー・オコナーは、作家は二十歳を過ぎたら、あまり多くのことを経験する必要はないと述べている。小説を作り出す材料の多くは、それまでに作家の身に起こってしまっている。それも十分すぎるくらいに、と彼女はいう。それ以降作家が創作を続けるのに十分すぎる材料を手に入れている、というのだ。このことは、しかし、わたしには当てはまらない。わたしにとって物語の「題材」にふさわしいと思えるものの大半が、二十歳以降に経験したことなのだ。わたしの人生において、子どもを持つ前のことは、あまり思い出せない。二十歳になり、結婚して、二人の子の親になるまで、わたしの人生にはなにも起こらなかったように思える。むしろ、そのときから、いろいろなことが起こり始めたのだ。

一九六〇年代の半ばに、わたしはアイオワ・シティの混み合ったコインランドリーにいた。五つも六つもある衣類の山――ほとんどが子どもたちのものだが、わたしたち夫婦の衣類もいくらかあった――を洗濯しようとしていた。妻は、その土曜日の午後、大学のアスレチック・クラブでウェイトレスの仕事をしていた。わたしは家事をしたり、子どもの世話をしていた。子どもたちは、その日の午後、たぶん誕生パーティか何かで、どこか友達のところにいっていたのだろう。ちょうどそのとき、わたしは洗濯をしていた。わたしはすでに意地の悪そうな老婆と、わたしが使わねばならない洗濯機の数をめぐって、くち汚く口論したばかりだった。わたしはいま彼女と、あるいは彼女に似たほかの人とともに、次の番を待っている。いらいらしながら、満員のコイン・ランドリーで、稼働している乾燥機から眼を離さずに。乾燥機の一つが止まったら、湿った衣類の入った買物籠を持ったまま、そこまでダッシュしよう。わたしはこのランドリーで、籠いっぱいの衣類を持って、チャンスを待ちながら三十分かそこら、ただぶらぶらしていたというわけなのだ。すでに乾燥機二つを見逃してしまっていた――ほかの誰かに取られてしまったのである。わたしはやっきになっていた。承知のように、子どもたちがどこにいるのか、わたしにははっきり分からない。どこかに迎えに行かなければならないかもしれない。もう遅くなりかけている。こうしたことが、わたしの精神状況にいいはずがない。わたしには分かっていたが、たとえ衣類を乾燥機のなかに入れることができたにしても、乾くまでに――それを籠に詰め込んで、学生夫婦用のアパートに帰るまでに――もう一時間以上はかかるだろう。ついに乾燥機の一つが止まった。止まったとき、わたしはその真ん前にいた。なかの衣類は回るのを止め、動かない。三十秒かそこらで、もし誰も取りに現われなければ、その洗濯物を取り出し、自分のを代わりに入れるつもりでいた。それが、コイン・ランドリーのしきたりなのだ。しかし、そのときひとりの女がやってきて、乾燥機の扉を開けた。わたしは立ったまま、待っていた。この女は片手を乾燥機のなかに突っ込み、いくつかの洗濯物に触ってみる。まだ十分乾いていない、そう女は判断したらしい。扉を閉め、十セント硬貨をもう二杯投入したのだった。呆然としたまま、わたしは買物車とともにその場を離れ、ふたたび待つはめになった。しかし、いまでも覚えているが、そのように涙も出んばかりの、どうしようもない欲求不満を感じている最中に、わたしは思ったのである。自分に二人の子がいるという事実に比べれば、この世でわたしの身に降りかかることなど、何一つ――ほんとうに何一つ――深刻でも、重要でも、大切でもない、と。つねに子どもたちから逃れられないし、つねに免れることのない責任と果てしない苦労につきまとわれるのだ、と。
いま語ろうとしているのは、ほんとうの「影響力」について、いわば月と潮の満干の関係についてである。影響とは、わたしにとってそのような関係のことであり、窓が開け放たれているときに、吹き込む一陣の突風のようなものなのだ。あの時点まで、わたしは、かなり漠然とながら、すべてが何とかなるものだと――自分が希望することも、したいと思うことも、すべてが叶うものだと――思っていた。だが、あのとき、コイン・ランドリーで、それがまったくの見当ちがいだと悟ったのだ。わたしは悟った――わたしはそれまで何を思っていたのだろう?――自分の人生なんて、およそけちなものにすぎず、破茶目茶で、あまり光も差し込まないということを。あのとき、わたしは思った――というか、知ったのだ――自分の人生は、心から尊敬する作家たちのそれとは随分ちがうということを。作家とは、わたしの理解するところでは、コイン・ランドリーでみずからの土曜日を費やしたり、また目覚めている時間を自分の子どもたちの欲求や気まぐれのために使うような人種ではない。むろん、わたしよりずっと深刻な創作の障害――牢獄、盲目、何らかの拷問や死の脅威――に遭遇した作家は腐るほどいるだろう。しかし、そんなことを知ったところで、何の慰めになろうか。そのとき――誓っていうが、すべてはあのコイン・ランドリーで起こったのだ――この先何年も、我が子に対する責任と苦労から逃れられないだろうということしか、わたしには考えられなかった。事態は多少変わるかもしれないが、けっしてよくなることはないだろう。それは理屈では分っても、果してやっていけるだろうか。そのとき、わたしはどこかで妥協しなければならない。視線を下げなければならない、と思った。


まるで神宮球場の外野スタンドにおける村上春樹さんの「啓示」のようです。

後でわかるのだが、わたしには洞察力があった。だが、それが何だろう。洞察力とは何なのだ。何の役にも立たぬではないか。むしろ、事態をいっそう難しくするだけではないか。
わたしたち夫婦は、勤勉に働き、きちんと生きていさえすれば、いいことがあるものだと、長いこと信じて疑わなかった。それは、人生の拠りどころにするのにちょうどよい信念だった。勤勉、目標、善意、忠誠心、こういったものをわたしたちは美徳と信じて、いつかはその報いがあるだろうと思っていた。暇さえあれば、夢ばかり見ていたのである。しかし、やがてわたしたちは、勤勉や夢だけではだめだと悟ることになる。たぶん、アイオワ・シティに住んでいた頃か、あるいはそのすぐ後の、サクラメントで、わたしたちの夢が崩れ始めたのだった。
ついにその時がやってきた。わたしたち夫婦が神聖視していたもの、尊敬に値すると思っていたもの、いわば精神的な価値を持つもののすべてが崩れさったのである。恐ろしいことが起こった。ほかの家庭では見たこともないようなこと。何が起こったのか、わたしたちには十分把握できなかった。それは、いわば浸食作用であり、食い止めることができなかった。どういうわけか、わたしたち夫婦が見ていないあいだに、子供たちが馭者台に乗っていたのだ。ばかばかしく思えるかもしれないが、子供たちが手綱と鞭を握っていた。わたしたち夫婦には、この先どうなるかといったことなど、まったく見当がつかなかったのである。


つづきます。



   

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

~ Trackback ~

トラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)