デニム中毒者のたわごと

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レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その67

 
「家のなかの物語」の続きです。

――ところで、執筆の習慣はどんなですか。いつも短編に取り組んでいるのですか。

カーヴァー 何かを執筆してるときは、毎日ね。そんなときは、とても素晴らしい。毎日が次の日に難なくつながって、たまに何曜日なのか分からなくなっちゃってね。まさにジョン・アッシュべりのいう「(汽船の)水搔き車の毎日」さ。執筆してないときは、ちょうど今みたいに、教鞭に縛られているときは、まるで一語も書いたことがないみたい、というか書く気がないみたいに、悪い癖に陥っちゃって、夜遅くまで起きていて、だらだら寝てばかり。でも、それはそれで構わない。じっと我慢して、好機を待つことを学んだから。ずっと昔に、学ばされたから、我慢することをさ。もし記号を信じるとしたら、ぼくの記号は、たぶん亀の記号だろう。時どき思いだしたように書くから。でも、執筆中は、何時間も机から離れない。毎日一〇時間から一五時間ぶっ続けにね。そんなときがくると、楽しくて仕方がない。こうした時間の多くは、校正や推敲に費やすんだけど。できあがった作品しばらく手元において、それに手を加えることほど、楽しいことはない。詩の場合も同じだね。ぼくは何かを書き終えてから、慌ててそれを送るようなことはしないで、何ヵ月も手元において、あれこれ手を加えたり、削除や追加を繰り返すんだ。でも、最初の草稿は、あまりかからない。たいてい一度椅子に座っただけでね。でも、校正にかなりの時間を取って、二〇校から三〇校もやったことがある。少なくとも、一〇校から一二校は下らないと思う。偉大な作家たちの草稿を見るのは、ためにもなるし、励みにもなるよ。校正が好きだった作家の名前を一人だけ挙げるとして、トルストイのゲラ刷りの写真のことが、いまぼくの頭にあるんだけど。まあ、かれが好きだったかどうかは分からないけど、うんざりするほどやっている。ページ合わせのときまで、絶えず校正していたらしい。『戦争と平和』を完成させてから、八度も書き直して、その上ゲラ刷りにまで手を加えていたというからね。こうしたことはぼくをはじめとして、最初の草稿が拙い、すべての作家の励みになると思うよ、きっと。

人間が出来ていないからなのでしょうか? こういう話を聞いても励みになるどころか、思いっきり引いてしまう自分が情けないです。でも、間違いなく推敲の鬼になることが大事なようですね。自戒しましょう。

――あなたが短編を書くときのことを詳しく聞かせてください。

カーヴァー いまいったように、最初の草稿は素早く書く。たいてい手書きでね。ただできるだけ早くページを埋める。時には、ぼくだけが分かる速記とか、後で戻ってきたとき何を書くかを記したメモを残す。場面によっては、未完のまま、書かずに放っておくこともあるし。後で細心の注意を払わなきゃならない場面は、特にね。もちろん、すべてに細心の注意を払わなきゃならないんだけど、場面によっては、二校か三校まで取っておくものもあるんだ。最初の草稿であれこれ書いて、しかもちゃんと書くには、時間がかかりすぎるからね。最初の草稿で大切なのは、輪郭を、いわば物語の足場組みを書き込むことで、それから、続いて何度も校正しながら、残りの部分に取りかかる。手書きの原稿ができあがると、それをタイプして、先に進む。タイプすると、いつもちがって見える、もちろん前よりよく見える。最初の草稿をタイプしながら、推敲を始めるんだ、すこし言葉を補ったり削ったりして。きちんとした作品になるのは、後になってから、三校、四校を済ませてから。詩の場合も、これと同じだけど、ただ詩は、四〇校か五〇校ぐらいやる。ドナルド・ホールに聞いた話だけど、かれは自分の詩を一〇〇回ぐらい校正するらしい。すごい話でしょう。

――文学的な影響について、ちょっと話してくれませんか。よく愛読している作家の名前だけでもいいですから。

カーヴァー まずアーネスト・ヘミングウェイ。初期の短編「二つの心がある大きな川」とか「雨の中の猫」とか「三日間の嵐」とか「兵士の故郷」、そのほかにも一杯あるけど。チェーホフも。思うに、ぼくが最も愛読してるのはチェーホフじゃないかな。もっとも、チェーホフが嫌いな人なんているわけないけど。いま話してるのは、かれの短編のことであって、劇じゃない。かれの劇は、展開がのろすぎる。それからトルストイかな。かれの短編、中編はどれもいい。それと『アンナ・カレーニナ』。『戦争と平和』は、御免こうむりたいよ。のろすぎてね。でも、『イワン・イリイッチの死』とか『主人と下男』とか「人間には、どれだけたくさんの土地が要るか」のトルストイは、最高だ。






イサーク・バーベリ、フラナリー・オコナー、フランク・オコナーなどもいい。ジェイムズ・ジョイスの『ダブリンの人々』。ジョン・チーヴァー。『ボヴァリー夫人』。昨年、この小説を読み返してね。フローベールが『ボヴァリー夫人』を制作してたとき――そうとしかいいようがないけど――そのときに書いた書簡集の翻訳が今度新しく出たから、それも一緒に読んだ。コンラッドもいい。アップダイクの『あまりに遠すぎて』も。また、トビアス・ウルフみたいに、ここ一、二年のうちに出会った素晴らしい作家たちもいるし。ウルフの『北アメリカの殉教者たちの園』は、まったく素晴らしい短編集だ。



マックス・ショット。ジョイ・ウィリアムズ。ボビー・アン・メイソンもいい。彼女の名前は挙げたっけ? ま、二度挙げたって悪くない。ハロルド・ピンター。V・S・ブリチェット。何年も前に、チェーホフの手紙を読んで、凄く感激した部分があってね、それは、数多くの文通相手の一人に与えたアドバイスだったんだけど、こんな感じだったんだ。友よ、途轍もない、記憶に残るような偉業を成し遂げる偉人などを書く必要はないんだ、ってね。(いいかい、ぼくはそのころ大学生で、王子だとか公爵だとか王国の転覆だとかの劇を読まされていたんだよ。探究とか何とかいって、壮大な冒険によって、ヒーローがそれにふさわしい立場におさまる、いわば、実物以上のヒーローが登場する小説の類をね。)だけど、あの手紙によって、ほかの手紙でもそうたけど、チェーホフがいいたかったことを読んで、またかれの短編も読んで、それ以前とは物の見方が、すっかり変わってしまったというわけなんだ。その後しばらくして、マクシム・ゴーリキーの劇や多くの短編を読んだんだけど、かれは、まさにチェーホフの意見を作品で裏打ちしていた。リチャード・フォードもいい作家だね、主に小説だけど、短編やエッセイも書くし、ぼくの友達さ。

――フィクションの創作と詩の創作で、どんな影響関係がありますか。

カーヴァー もう何もないね。長いこと詩の創作とフィクションの創作の両方に興味を持ってたんだけど。雑誌を手に取ると、必ずっていっていいくらい短編を読む前に、詩の欄をめくってたものさ。で、ついに、どちらか選択を迫られて、フィクションの側に就いたんだ。たぶん、その選択は正しかった。ぼくは、いわゆる「生まれつきの』詩人じゃないから。それをいうなら、ぼくは、アメリカの白人男である以外に、「生まれつきの」何者でもないだろうけどね。これからは、折々の詩人でいこうと思う。そうすることにするよ。詩をなんにも書かないより、その方がましだから。

――だれが一番先にあなたの作品を読むのですか。

カーヴァー 妻さ。ご存知のように、彼女は詩人でも、短編作家でもあるんだ。ぼくは手紙を除いて、みな彼女に見せるんだ。たまに手紙を見せる場合だってある。彼女には眼識があって、しかも、ぼくの書いたもののなかにうまく入り込める。だから、あれこれ推敲して納得するまでは、彼女には見せない。たいてい、それは四校か五校になるけど、それから先の原稿は、残らず目を通してくれる。これまでに、ぼくは三冊の本を彼女に献呈しているけれど、単なる愛情とか好意の証なんかじゃない。それは、彼女に対する大いなる尊敬と、彼女から助言とインスピレーションを貰ったことに対して感謝の意を表したものなんだ。

知人もそうみたいなんだけど、なんか羨ましい話ですね。でも自分の場合、逆に無関心でいてもらえるからこそ、何の気兼ねもなく自由にやれているのかもしれません。

――執筆には西海岸の方がいいんでは? それとも、ここ東部の方がいいですか。あなたの作品にとって、場所の感覚がどれくらい重要であるか教えてほしいんですが……。

カーヴァー 自分をある地域出身の作家と見なすことは、昔は大切だった。ぼくにとって、西部出身の作家であることが重要であったときもあった。でも、いまじゃもう、よかれあしかれ、そうじゃない。たぶん、あまりにあちこち動きまわって、あまりにいろんなところに移り住んで、感覚がずれちゃって、追放された感じになっちゃって、いまじゃしっかり根を下ろした「場所」の感覚は、全然なくなってしまって、ぼくが意識して特定の場所や時代に物語を設定するならば、実際そうしたこともあったけど、特に最初の本でね、たぶんその場所とは、北西部太平洋岸だろうね。場所の感覚で、ぼくが上手だと感じる作家としては、ジム・ウェルチ、ウォーレス・ステグナージョン・キーブル、ウィリアム・イーストレイク、ウィリアム・キットレッジなどがいる。こうした場所の感覚を持った優秀な作家は、ほかにもたくさんいるけど、ぼくの短編の大半は、特定の場所を舞台にしてるわけじゃない。というか、どの都市、どの郊外で起こってもおかしくないってことさ。ここシラキュースでもいいし、ツーソン、サクラメント、サン・ノゼ、サンフランシスコ、ワシントン州シアトル、あるいはポート・エンジェルスでもいい。ともかく、ぼくの短編の舞台は、ほとんど室内だよ!

場所の感覚については何とも言えません。ただ、自然条件やら季節には個人的な思い入れはあります。それは、フラナリー・オコナーが言うように「子供時代にすべての物語の種子が潜んでい」るんじゃないかということで、自分の場合は雪がそれに相当します。

以上でこのインタヴューは終わりです。

つづきます。



   

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