デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その65

 
「パリス・レヴュー・インタヴュー 」(ユリイカ』――『変貌するアメリカ文学』一九八七年十月号) 「家のなかの物語」の続きです。

――あなたの若い頃について聞かせてください。

カーヴァー ぼくが育ったのは、ワシントン州の田舎町、ヤキマというところで、親父はそこの製材所で働いていた。鋸の目立て、つまり丸太を切ったり、かんながけをする、鋸の手入れが仕事でね。おふくろは小売り店の店員をしたり、ウェイトレスをしたり、そうでなきゃ家にいたけど、どの仕事もあまり長くはやらなかった。おふくろの「神経症」にまつわる話があったっけ。台所の流しの下の棚のなかに、市販の「鎮静剤」の瓶がしまってあって、おふくろはそれを毎朝スプーンに二杯ずつ飲んでいた。親父の鎮静剤は、ウィスキー。ほんとによく流しの下の同じ棚に酒瓶がしまってあったっけ。そうでなきゃ、外の薪小屋のなかかな。一度こっそり味を確かめたたんだけど、そりゃひどい代物で、こんなものがよく飲めるなって思ったものさ。家は、寝室が二つだけの小さい家だった。ぼくが子どもの頃は、何度も引越したものだけど、いつも寝室が二つだけの小さい家だった。いま思い出せる限り、最初の家は、ヤキマのサーカス会場の近くだったけど、外にトイレがあって。一九四〇年代の後半で、ぼくは八歳か十歳くらいかな。バス停で親父が仕事から帰ってくるのを待っていたものでね。いつもは時計仕掛みたいに規則正しい親父だけど、二週間かそこらに一度は、バスに乗っていない。ぼくはそのままどこにも行かずに、次のバスを待ち続けるんだけど、親父はそれにも乗っていないってことは、先刻承知なんだ。こういうときは、親父の製材場の友達と飲みに行ったってことだから、おふくろと弟とぼくだけが夕食の席に着いたとき、その場に漂っていた宿命感、絶望感といったものが、ぼくはいまでも忘れられない。

――作家になろうと思ったのは、なぜですか。

カーヴァー いまできる唯一の説明は、ぼくが子どもの頃に、親父が自分のことを話して聞かせてくれたってことかな。それから親父の親父や、おじいさんのことも。親父のおじいさんは、南北戦争に参加して、両方の側で戦ったんだって! いわば、裏切り者なんだ。南部が負けそうになったとき、北部に渡って、連邦軍の味方をしたわけさ。この話をしてくれたとき、親父は笑ってたっけ。悪いところは一つもないって思ってたらしい。たぶん、ぼくもそう思ってたんだろう。ともかく、親父はいろんな話を、なんら道徳臭くない逸話を聞かせてくれた。森をぶらぶら歩きまわったこととか、そうでなきゃ、汽車に乗ってわざわざ機関車を見に行ったこととか。ぼくは親父のそばにいるのが好きで、こうした話をいろいろ聞かせてもらうのが大好きだった。時には、いま読んでいる本の一節を読んでくれたこともあった。ゼイン・グレイの西部劇小説だけどね。それは、教科書とか聖書を除けば、ぼくが見た最初のハードカバーの単行本だった。そうめったになかったけど、親父が床に就きながら、ゼイン・グレイを読んでいたことがあった。プライバシーのない家や家族にあって、これはとてもプライベイトな行為に思えてね。で、親父にもこうしたプライベイトな側面があるんだ、ぼくには理解できなかったり、わからなかったりするけど、こうした折々の読書によって表現される側面があるんだ、ってことを知ったわけさ。そういった側面に、そういった行為そのものに、ぼくは興味を抱いて、いま読んでいる本を読んでくれと頼むと、どこであろうと、読書中の一節を読んでくれて、しばらくすると、親父はいうんだ。「さあ、何かほかのことをしておいで」って。まあ、やることは、たくさんあったから。当時は、家からあまり遠くない小川で魚釣りをしていた。そのちょっと後に、鴨とか、雁とかいった高地の獲物を捕り始めて、狩りと釣りが、当時、ぼくが心を踊らせた遊びだった。ぼくの感情生活に痕跡を残したのも、そんな遊びだったから、そのことをぼくは書きたかったんだ。
当時のぼくの読書は、時折、歴史小説やミッキー・スピレーンの推理小説を読むほかは、いろんなものに手を出した。『スポーツ・アフィールド』とか『アウトドア・ライフ』とか、『フィールド・アンド・ストリーム』なども読んだ。あるとき、逃した魚、いや捕まえた魚だったかな、ともかく、どっちかの魚についてやや長めのものを書いて、おふくろにタイプしてくれないかって頼んだら、おふくろはタイプライターを打てなかったんだけど、やさしいことに、わざわざタイプライターを借りに行ってくれてね、二人揃ってタイプして送ったんだ。そりゃひどい出来だったけど。確か、そのアウトドアの雑誌の奥付に住所が二つ書いてあったから、うちに近い方の会社、コロラド州ボールダーの販売部門に送ったと思う。その作品は、最後に送り返されてきたけど、だからといって、どうってことはない。その原稿は、なくなってしまったけど、おふくろ以外に、誰かが読んでくれたんだから。というか、それがぼくの願いだったから。それから、『ライターズ・ダイジェスト』で、ある広告を見たんだけど、成功した作家の写真が載ってて、パーマー作家学校とかいうものを推薦しているらしかった。これこそ、僕のためにあるようなものだって思ってね。そこには月謝の方法が書かれていて、まず即金で二〇ドルか、三年間か三〇年間だかに月謝で一〇ドルだか一五ドル、そのうちのどれかを選べといったものだった。週ごとに一人ひとりで返事を書かなきゃならない宿題があって、それを数ヵ月続けたんだ。それから、たぶん飽きてしまったんだろう、宿題を止めてしまって、すぐにパーマー学校から一通の手紙が送られてきて、残りの支払いを済ませ場、まだ卒業証書の授与が可能であると書いてあった。それは、十分すぎる申し出だったから、ぼくはなんとか親を説き伏せて、残金を払ってもらい、しばらくしてから卒業証書をもらって、それを寝室の壁に掛けた。でも、高校時代を通じて、卒業したら、ぼくは製材所で働くものだと思われていたんだ。長いこと、ぼくは親父と同じような仕事がしたいと思っていたんでね。親父は製材場のボスに、ぼくの働き口を見つけてくれるよう頼むつもりだったらしい。そういうわけで、ぼくは半年間、製材場で働いたんだけど、その仕事がいやで、第一日目に思ったものさ、残りの人生をこんなことをして過ごしたくないって。車と、少しばかりの服を買えるくらいの貯金ができると、仕事を止め、家を出て結婚したんだ。


――あなたは大学教育を受けられましたが、それは奥さんが行ってほしいと願ったからですか、それとも奥さんが行きたかったから、あなたも行きたくなったのですか。その時点で、幾つでしたか。奥さんもきっと若かったことでしょう。

カーヴァー ぼくは一八歳。妻は一六歳で、妊娠していた。ちょうどワシントン州ワラソラにある監督制(エピスコパル)教会の私立高校を卒業したばかりだったけど、在学中に、妻はティーカップの正しい持ち方を習ったり、宗教に関する教えとか体操とかを習って、それと同時に、物理や文学や外国語も教わったらしい。ラテン語を知ってるっていうんで、ぼくはほんとに感激した。ラテン語だよ! 最初のうちは、彼女も断続的に大学に通おうとしたけど、とても無理だった。そうしながら、子どもを育てるなんて不可能なことだし、それにしょっちゅう一文無しになってたから。ほんとの一文無しにね。彼女の家にも、金はなかった。あの高校は、奨学金で行ってたんだ。彼女のおふくろは、ぼくのことを嫌ってね、それはいまでもそうだけど。妻は、高校を卒業したら、奨学金を貰ってワシントン大学で法律を勉強することになっていたんだ。それなのに、ぼくに妊娠させられるわ、ぼくと結婚して、一緒に生活を始めるわ。最初の子が生まれたとき、妻は一七歳で、次のが生まれたときは一八歳だった。この時点で、ぼくたちに何が分かるだろうか。ぼくたちには、青春なんてなかった。どのように演じるべきか分からない役割を背負ってね。でも、ぼくたちは最善を尽くした。それ以上、尽くしたって思いたい。ついに、妻も大学を出ることができたし、結婚してから一二年か一四年後に、サン・ノゼ州立から文学士を授与されたんだけどね。

――そうした若い、困難な時期にも執筆していたのですか。

カーヴァー 夜働いて、昼は学校に行ってね。ぼくたちは絶えず働いてたな。妻は電話会社で働きながら、育児と、家計のやりくりに忙しかった。子どもたちは、昼のあいだだけベビーシッターに預けて、ついに、ぼくがチコ州立大学を文学士で卒業すると、ぼくたちはすべてを車のなかに、車の屋根に付けたキャリー・オールに詰め込んで、向かったんだ、アイオワ・シティにね。フンボルト州立大学のデッキー・デイという先生が、アイオワ大学の作家セミナーのことを教えてくれ、ぼくの短編一編と、詩三、四編をドン・ジャスティスのもとに送ってくれて、ぼくは五〇〇ドルの助成金を貰えることになったんだ。

――五〇〇ドルですか。

カーヴァー そう、それしかないってね。そのときは、大金のように思えたけど。でも、アイオワ大学は、中途で止めちゃった。二年目に、勉学を続けるための金を増やしてくれるっていわれたんだけどね。僕は時給一、二ドルで図書館で働き、妻はウェイトレスをしていた。ぼくが学位を取るまで、あともう一年かかりそうだし、最後までやり通せそうもなかったんで、カリフォルニアに舞い戻って。今度は、サクラメントだったけど、マーシー病院というところで、夜の用務員の仕事を見つけて、その仕事を三年。とてもいい仕事だった。一晩に二、三時間働くだけでいいんだけど、給料は八時間分くれてさ。かなり大量の仕事をこなさなきゃならないんだけど、済んでしまえば、もうそれでおしまい。家に帰ろうと、何をしようと構わなくて、一、二年目は毎晩家に帰って、まともな時間に床に就いたから、朝起きて、執筆することができた。子どもたちはベビーシッターのところに行っちゃってるし、妻も訪問販売の仕事に出かけていたから、ぼくは、まるまる一日を自由に使えたわけなんだ。しばらくのあいだは、これも悪くなかったけど、やがて夜の仕事がひけてから、家に帰らずに、飲みに行くようになってしまった。ここまでは、一九六七年か一九六八年のことかな。

こういう経緯は知っていましたが、カーヴァー自身の口から――こんなに赤裸々に――話を聞くのはほとんど初めてですね。

つづきます。



   

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