デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その61

 
A 短篇集の続きです。

★『ぼくが電話をかけている場所』(一九八八年)
それまでの短編三十編をカーヴァー自ら選んで新たに配列し直し、その他に新作短編七編(『象』というタイトルで短編集も編まれている)を収めた短編集である。この短編集をレコードに喩えれば、「もはや聴くことができなくなった以前のアルバムの名曲と、あちこちばらばらに発表していた新曲を集めた『編集アルバム』ということができる。以前の作品もカーヴァー自身の選択と配列によって新たな味わいが出てくるだろう。また、ある意味で、短編作品におけるそれまでの集大成であると言えるだろう。
この短編集をもって、カーヴァーを「ミニマリストの司祭長」と見なす意見もあるが、その一方で「ミニマリストというグループからはずしたい」という見方や「この短編集を読めば、物事に対する適切な言葉をできうる限り正確に用いるきちょうめんな作家で(precisionist)あることが分かる」との賛辞もある。この新刊が既に「古典」であるという言い方は、いささか宣伝めいた感もあるが、また、カーヴァー自身が愛読していたチェーホフ――この短編集に収められている「使い走り」では、チェーホフの末期の姿が描かれている――と比肩しうる作家だとして、カーヴァーを「アメリカのチェーホフ」だと評する批評家もいることも頷ける。
カーヴァーがどういう意図を持って、どういう観点から自作を三十編選んだのかということも一考に値するだろうが、ここでは新たに配列された以前の作品を中心に取り上げてみたい。この短編集のエピグラフはミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』から引いている。


我々は自分が何を望んでいるのか決して分
からない
なぜなら、我々はたった一度の人生しか歩
むことができず、
その人生とそれまでの人生と比べてみるこ
とも、
これから来るべき将来の人生でそれを完璧
にすることもできないからだ。


あるインタヴューでカーヴァーは、恩師ジョン。ガードナーがその著『道徳小説論』で唱えていた道徳とは何かと訊かれて、それは「現実肯定」だと応えている。エピグラフから感じとれるのは、まさにその「現実肯定」の姿勢である。カーヴァーの場合それは、日々の暮らしに満ち足りているという「現実肯定」ではない。どうにか生活を変えたい、いい暮らしをしたいと常に願っているが、どうにもうまくいかない精神的窒息状態にいながら、それでもである。毎日を送っていかなければならない、という意味の「現実肯定」である。カーヴァーはそういう人々を書きつづけてきたのだ。あるインタヴューで述べているように、「成功したくても成功しない人の人生は書くに値する」と感じ、「最善を尽くすしかない」人々を浮き彫りにしてきたのである。しかし当然のことながら、カーヴァーの作品ではそういった人物たちに「啓示」の瞬間も「至福」の瞬間も訪れることはなかった。
それは、新作の七編でも同じである。ただ、『カセドラル』以来の登場人物たちの精神的な深まりは維持されている。しかし、その深まりがこの短編集の場合、「重さ」となって読者の胸に残ってしまう。それは作品の重量感ではなく、読後の「せつなさ」、「やりきれなさ」に近い。なぜ、そのような印象を受けるかといえば、カーヴァーが緊張感ある場面ではなく、緊迫した状況下にある人の心の動きを捉えようとしているために、感情表現が多くなっているせいだと考えられる。カーヴァー的な感情表現を抑えた淡々とした語り口ではなく、登場人物の感情の吐露が目につき、それが読む者に「重さ」を感じさせるのである。緊張感ある場面をスナップ・ショットのように捉えていた初期の作品の文体は、客観的な「ハードボイルド・スタイル」の文体であった。そこにはカーヴァーの突き放した視点があった。したがって、感情表現が抑えられた描写から、登場人物の心の機微を窺い知ることが読者の楽しみでもあった。しかし、晩年の作品からは作者のそうしたディタッチメントは感じられず、どろどろした感情が描かれ、読者はカーヴァーらしからぬ語りの「くどさ」を感じとってしまう。
「メヌード」では、隣人の妻と不倫をした夫が彼女の家庭が崩壊していくさまを見つめている。彼女は夫に不倫の相手を明かさず、狂気へと向かう。当の男も、自分の妻に真実を打ち明けず、こうした事態をもたらした原因が自分にあることをよく分かっていながらどうすることもできない。夫は妻が体現する「世界の外に出てしまった」のであり、、「もう二度とその中に戻ることはできない」と感じている。かれは「自分のバランスが失われているように【感じた】。僕という人間が失われているように【感じた】」と語る。(※ 【】内傍点)
「誰かは知らないが、このベッドに寝ていた人が」は、眠れぬ夫婦が語り合いながら夜を明かす物語である。二人の会話の中心は、もし生命維持装置で命を保っているくらいの絶望的な病に冒されてしまったとき、相手にその装置のプラグを抜いてほしいかどうかという「人の生死にかかわる」重要なことである。妻は夫にプラグを抜いてほしいと言い、夫は抜いてほしくないと言う。『お静かにねがいます』の「学生の妻」や「アラスカに何があるの?」でも悪夢的な眠れぬ夜の風景が描かれていたが、夫婦ふたりが眠れずに、あるいは眠らずに語り明かすことはなく、どちらか一方だけが目覚めていたに過ぎなかった。しかし、「誰かは知らないが、このベッドに寝ていた人が」では二人とも眠らずに朝まで語り明かすのである。二人は忌憚なく語り合うことで、精神的な深まりを感じとる。一睡もせずに仕事に出掛け、くたくたになって帰ってきた夫は妻の顔をみて、生命維持装置の件については「もうこれ以上考えたくない。話すのも嫌だ。このことについて話すべきことはありったけ話したと思う」と語る。これほどに二人は語り合い、絆が深まった。その意味で「ささやかだけれど、役に立つこと」の両親と同じく、この夫婦にも、疲労感とともにある種のすがすがしさがある。しかし同時に、夫がある領域に踏み込み過ぎたために後戻りできなくなったという恐怖感を感じているのも確かである。

僕はなんだか自分に見えない一線のようなものを跨いでしまったみたいに【感じる】のだ。僕は自分がそんなところにくるなんてあるものかと思っていた場所に来たみたいに【感じる】のだ。どうしてこんなところに来てしまったのか、僕にはわからない。ここは奇妙な場所だ。ここでは害のない夢と眠たげな早朝の会話が、死と消滅(annihilation)についての考察に僕をひきずりこんでいく。


この文章でボクが連想したのは村上春樹さんの『ダンス・ダンス・ダンス』でした。





どうしても「いるかホテル」のことを思い浮かべないわけにはいかないんですよね。

夫は思考に思考を重ねた結果の思考的、論理的袋小路という「奇妙な場所」に入りこんでしまっている。ここでも、心の中のさまざまな考えが錯綜する姿を描く、「……と感じる」という表現がしばしば使われている。カーヴァーは客観的な描写だけでは、表現しきれない心の中を描こうとしているのである。そのとき、主人公の心を占めている事柄は、精神的行き詰まり、ひいては死の予感である。「メヌード」では主人公である夫は「自分のバランスが失われているように【感じた】」。「誰かは……」における夫は、「死と消滅についての考察にひきずりこまれていく」。両者とも心の中ではさまざまな思いが渦巻いている。あたかも北極に達して、羅針盤の針があらゆる方向を指し示してしまっているかのように、方向感覚を保持したいにもかかわらず、方向感覚がないままただ茫然と立ちつくしているのである。

これはカーヴァー的シチュエーションであると共に、これまた極めて村上春樹的状況でもあります。
考えてみれば、春樹さんもまた、「デタッチメント」から「コミットメント」へと時間をかけて変化してきた作家です。カーヴァーを意識する・しないに関わらず、あるいは必然だったのかもしれません(おそらく……いや、まず間違いなく無意識が志向した「こと」なのだと思います)。

そうすると気になるのは、春樹さんの今後です。先行者としてのカーヴァー(その他多大な影響を受けたと思われる作家たち)亡き今、春樹さんが指標としている作家は果たして存在しているのでしょうか? 春樹さんの新作(『騎士団長殺し』)は未読なのですが、読んだ際には、そのあたりを考慮しつつこの場で考えてみたいと思っているところです。





あるいは、立ちつづけることさえできないかもしれない。「ブラックバード・パイ」と「親密」も、同じように、離婚を題材としているが、「親密」はまさにどろどろした感情が吐き出されていて、はるかに重く、つらい作品である。作家の男が先妻を訪れる。先妻は再婚し、心は元の夫からは完全に離れている。彼女は自分たちのことを作品の糧にしていることに腹を立てていて、追い立てんばかりの勢いである。作家と彼女とは理解しあうことはもはやできない。男は、「かつては私たちはとっても親しかったけど、いまではそれは信じられない」とか「あなたの心はジャングルよ、暗い森だわ。言ってみれば、ゴミバケツなのよ」と罵られ精神的に崩れていく。あまりに激しい、感情的な言葉のために男は脆き、彼女の服の裾にすがりつくしかない。「気違い沙汰だった。しかし僕は脆き、服の裾にしがみつきつづけていた。手を放したくなかった。テリアのように床に張りついていた。僕は動けないように感じた」。かつては愛していた女性から罵られ、打ちのめされていく男。かれは言葉を失い、ただすがりつくことしかできないのである。
以上のような「重い」作品のなかで比較的カーヴァーらしいディタッチメントを保持していると思われるのが、「象」と「使い走り」である。「象」に登場する父親は、経済的に身動きがとれなくなっている。父親は、母親をはじめとして先妻、娘、息子に対する仕送り、それに加えていい加減な弟からも金を無心される。かれは自分の生活を切り詰めて、金を工面する。こんな生活をどうにかしたいとは思いながらも、実際にはどうすることもできない。せいぜいできるのは、しがらみを解いてオーストラリアに逃げてしまおうと夢想することと、幼い頃に父親に肩車されて「まるで象に乗っている」ような気分を味わったことを思い出すことであり、そうしたことが唯一の慰めとなっている。しかし、この男から弱さは感じられない。カーヴァーらしい淡々とした語りで、父親の生きのびようとする強靭さが、カーヴァーの愛する「うまくいかないことが分かっていながら、それでもなおベストをつくすしかない」人間の姿が、ここには描かれているように思われる。
「使い走り」では、カーヴァーが敬愛するチェーホフの最期が静かに描かれている。カーヴァーが実在の人物を題材にした唯一の作品である。しかし、カーヴァーの目が追うのは、チェーホフでもその妻でもなく、チェーホフが死を迎えたホテルのボーイである。深刻な事態を迎えているにもかかわらず、なぜかわからないが、それとは全く関係のない物事に気を奪われることがある。そのように、ボーイは部屋に落ちているシャンペンのコルクに執着する。それは、チェーホフのいまわの際に抜いたシャンペンのコルクである。作品の最後では、葬儀屋に使いに行くことを未亡人から頼まれているとき、足もとにあったコルクをつかみ、手の中で握りしめるボーイの姿が描かれている。大作家チェーホフの臨終とボーイの手の中にある小さなコルクのコントラストがカーヴァーらしい異彩を放っている。


A 短篇はこれで終わります。

つづきます。



   

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