デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その60

 

A 短篇集の続きです。

★『カセドラル』(一九八三年)
カーヴァーは『愛について語るとき我々の語ること』を出した後の数ヵ月は、手紙以外にはものを書かなかったという。カーヴァーはそれまでの書き方では「行き詰って」しまうと感じた。しかし、その後初めて書いた「カセドラル」を書いているとき、カーヴァーは「いままで自分に課してきたものから、一個人としても美学的にも抜け出していくように感じ」、「初期の作品を書いた際にみずからに課していた制約を課す必要がなくなった」のである。また、『愛について語るときに我々の語ること』における方向性を維持しようと思えば維持できたが、維持したくなかったとも述べている。
それでは、このような姿勢がどのように作品に反映されているのであろうか。『お静かにねがいます』に比べると、多くの批評家が述べているように、この短編集から受ける印象は「明るい」、もしくは「寛大」ということになる。もちろん、作品が全く様変わりしたというわけではなく、題材・背景として飲酒、アル中、結婚生活の破綻など、カーヴァーの作品ではしばしば見られる悲観的なものが扱われているものが大半であり、十二編中、九編を数えている。例えば、飲酒が何らかの破綻の原因となっているものに、カーヴァー自身も入院したアル中の回復センターを舞台にした「ぼくが電話をかけている場所」が挙げられるし、また「轡」にしても、酒を飲んだ勢いでみずから招いた夫の怪我が引き金となって一家族の悲劇が生まれている。また、「シェフの家」、「保存」などでは夫婦関係の崩壊する様が描かれている。
従来の作品と同じ題材、同じ設定のそういった作品にも初期の作品との違いは見られるが、特にそれまでの作品と違いを感じるのは、「ささやかだけれど、役に立つこと」とタイトル・ストーリーの「カセドラル」であろう。ある批評家の言葉を借りれば、どちらも「鋭く、また複雑でさえある心理劇」である。
「ささやかだけれど、役に立つこと」は『愛について語るときに我々の語ること』所収の「風呂」を書き直したものである。誕生日を迎えた当日に、ひとり息子が自動車にはねられてしまう。両親は二人して病院で意識不明の状態にある息子を見守る。両親は休息をかねて交代で帰宅する。父親が風呂に入っているときに妙な電話がかかってくるが、父親は変質者の仕業だと考える。次に母親が家に帰ると再び電話が鳴る。息子に何か変化があったのではないかと思う母親のこころを逆撫でするように、電話の声は、意味ありげに息子の「スコッティのことだよ」と告げる。実は、電話の主はパン屋の初老の男であり、母親が誕生日のためにケーキを注文したのに取りにこないため、いやがらせの電話をしていたのだった。「風呂」の場合はここで話は終わる。不気味な電話で物語は断ち切られ、サスペンスにも似た余韻が残る。意識不明の息子をかかえ、いつ何時息子に変化が生じるかわからない緊迫した状況下におかれた両親と正体不明の電話。カーヴァーが描きたいと思っていた、日常性の恐怖感が「風呂」には張り詰めている。
一方、「ささやかだけれど、役に立つこと」では、物語はここから新たな展開を見せ、息子は死んでしまい、両親が電話の主をつきとめることになる。「殺してやりたい」ほどの怒りを胸に二人は、パン屋に押しかけ、かれを問い詰める。事情を聞いたパン屋は自分の非を認め、みずからの孤独で悲しい人生を二人に語る。自分が邪悪な人間ではなく、「人間としてのまっとうな生き方が分からなくなってしまった」と、パン屋は誠実に打ち明ける。そして、焼けたばかりのロールパンを二人に食べるように勧め、「ちゃんと食べて、頑張って生きていかなきゃならんのだから、こんなときには、物を食べることです。それはささやかなことですが、助けになります」と言う。夫婦は食べられるだけパンを食べ、三人は夜明けまで語りつづける。もちろん、これで両親が何らかの「啓示」を受けて、ハッピー・エンドを迎えたとは言えない。そのような見方は、「安っぽい落ち」(cheap trick)を嫌うカーヴァーが首肯しないだろう。しかし、カーヴァー自身も認めているように、ここにはあきらかに「明るさ」がある。それは単に日常の「脅威」を描いているだけに止まらずに、自我と自我が対立し、語り合う人間の姿が描かれているからであろう。もちろん、ここには完全なる救済があるわけでは決してない。しかしながら、人間関係の中になんらかの光りが見えることを期待できないわけでもない。他人を傍観者的にのそき見るのではなく、ある事件をきっかけとして同じ体験をし、お互いに傷つき合いながら、本心をさらけ出すことで、そこに何らかの精神的関係が築かれることを予感させるものがあるからだ。夫婦間の精神的繋がりも、「風呂」と「ささやか……」の違いが歴然としている。


おそらく、「ささやか……」のバージョンに影響されたんじゃないかと個人的(かつ勝手に)思っているのが、村上春樹さんの短篇「パン屋再襲撃」です(物語に直接的な類似性など皆無なのですが、全体に漂っている空気感のようなものが、そうさせるんです)。



夫は妻の横の椅子に座った。かれは〔息子の状態について〕何かほかのことを言いたかった。しかし、言うべき言葉を口にすることはできなかった。夫は妻の手を取り、自分の膝の上に置いた。こうすると気分がよくなった。【こうしていると、何かを語っているような気がした】。(※ 【】内傍点、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、)。(「風呂」)

……〔夫は〕椅子から立ち上がり、手足を伸ばし、窓際にやってきて彼女の隣に立った。二人は駐車場を眺めた。ひとことも口をきかなかった。【でも、二人は互いをしっかりと身の内に感じていた。あたかも心労が二人をことごとく自然に透明にしてしまったみたいに】。(※ 【】内傍点、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、)。(「ささやかだけれど、役に立つこと」)


「書き過ぎて」いるとしてそよりも「風呂」を評価する向きもあるが、「ささやか……」の方には明らかに精神的深まりが描かれている。ある批評家が言っているように、この二つの「複雑な心理劇」の変化は、「実存主義的リアリズム」から「ヒューマニスティックなリアリズム」への移行だといえるだろう。
精神的な繋がりを深めるためには、相手と同じ体験をしたり、同じ境遇におかれたりしなければならない。ときには相手の立場に踏み込み、傷つけてしまうこともあるかもしれない。のぞき見的な傍観者から血が通う共感者へならなければならない。そのとき必要なのは、のぞき見るときの目(sight)ではなく、心を感じとる眼(insight)である。実際に目に映っているために、むしろそれが邪魔になって物事が見えなくなることがある。あるいは、理性的理解が感性的理解を阻んでいるといってもいい。ともかく、心の眼でしか感じ取れないものがある。「カセドラル」で扱われていることはまさにそれに匹敵する。妻の古い友人である、盲目の男が訪ねてくる。盲人に対して、あまりよい印象を持っていない夫は快く応対することができずにいる。夫はテレビで放映していた番組で大聖堂が映し出されたときに、その盲人に大聖堂とはどんなものか分かるかどうか質問する。そのような意地悪な質問をしたことを夫が詫びると、盲人は一つのことを提案する。絵を描く夫の手の上に盲人の手をのせて、その動きによって理解するというのだ。そして夫は言われた通りに目を閉じて描きつづける。盲人と同じ体験、同じ立場にいることによって、夫は心の眼で何かを感じ取るのである。


……私はずっと目を閉じていた。もう少し目を閉じていようと私は思った。それはあっさり忘れ去ってはいけないことなんじゃないかと私は思ったのだ……。
私の目は閉じたままだった。私は自分の家にいるわけだし、頭ではそれはわかっていた。しかし自分が何かの内部にいるという感覚がまるでなかった。
「たしかにこれはすごいや」と私は言った。


こうして、男はいままでの人生で味わったことのない感覚を味わいながら絵を描きつづける。その行為は、盲人が語った「私はいつも何かを学びとろうとしているんだ。学ぶことには終わりってものがないからね」というヒューマニスティックな言葉と共鳴する。
「ささやか……」と「カセドラル」に見られるように、カーヴァーがこの短編集でとった姿勢は、人間の精神の内部を描くヒューマニスティックな「明るい」姿勢なのである。


『カセドラル(大聖堂)』という短篇集はボクも大好きな作品集です。何より密度が濃く完成度も高い短篇が揃っていて、とても勉強になります。



以前にも書いた覚えがありますが、カーヴァーのパートナーであったテス・ギャラガーもまた「カセドラル」と同じ設定で別の物語を紡いでいます(『ふくろう女の美容室』所収の「キャンプファイヤーに降る雨」がそうですね)。重ね併せて読んでみるのも面白いので、興味のある方は是非ともそうしてください。



つづきます。



   

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