デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その59

 
A 短篇集の続きです。
★『愛について語るときに我々の語ること』(一九八一年)
この短篇集の基調は、タイトルが暗示している「対話」そして、相互理解、和解、合意といったものではない。もちろん、『お静かにねがいます』にあった傍観者的に「見る」という行為から、相手との対話へと向かう志向性がないわけではない。隣人を「のぞき見る」設定の作品のタイトルから感じさせる「私にはどんな小さなものも見えた」は、単にのぞき見る傍観者の立場ではなく、相手に近づき、対話する形に一応なってはいる。夜中に門扉が開く音がして、庭に出ていってみると、隣に住む男が薔薇にまとわりつくなめくじをとっている。主人公の女性とその男は言葉を交わす。相手に見られないようにじっと家の窓から見ている「のぞき見」の姿はそこにはない。とはいえ、その会話は新たな精神的繋がりを助長するようなものではない。言葉は交わされているが、意志の疎通、相互の理解はここには存在しない。この作品はもとより、この短篇集の多くの作品では、のぞき見の立場から相手の存在に一歩近づき会話する際の相手との緊張関係が描かれ、さらには相手と結んでいた精神的繋がりが音を立てて切れる姿が描かれるのである。換言すれば、「カーヴァーをとらえて離さない主題は、本当に大事なことについて話すことの難しさ」なのである。そのため対話の結果ではなく、対話をしているときの緊張感、テンションが多く描き出されることになる。
しかも、その緊張感、もしくはカーヴァーの言葉を引用すれば、ごくごくありふれた日常生活の中の「脅威」(menace)が、しばしば暴力的な形となって表れている。意見が対立したり、相手に思い通りのことが伝わらなくなって言葉が機能しなくなると、何も語らなくなるか、言葉以外のものに訴えざるを得なくなるだろう。後者の場合、抑えきれなくなった感情は爆発し、暴力となって表れる。「もう一言だけ」には、失業中で、酒を飲み酔っぱらっている夫が登場する。かれは娘にはたしなめられ、妻には出ていけと言われるに及んで、感情が爆発し、伸びた手はピクルスのビンをつかみ、それを台所の窓に投げつける。かれは「ただ、もう一度だけ言いたいことがある」と家を出ていく際に口にするが、「自分が一体何と言ったらいいのか分からなかった」のである。また、夫婦間で赤ん坊を力づくで奪いあう姿を描いた「ある日常的力学」も、交わされる言葉はもはや会話の体をなしておらず、描かれるのは赤ん坊をモノのように強引に引っ張りあう二人の姿だけである。
さらには、暴力が極端な形になって、殺人や自殺が描かれる。カーヴァーには珍しく、肉体的な暴力、究極的には死というものがこれほど多く扱われている短篇集はないように思われる。死ということに関して言えば『ぼくが電話をかけている場所』に収められた晩年の作品にも死の影は窺えるが、それはずっしりと重い、カーヴァー自身の諦念にも似た重厚さをもっている。一方、この短篇集から感じ取れる死は、サスペンスめいていて、暴力的で、どこかジェイムズ・М・ケインを髣髴させるものである。その点で特に、「足もとに流れる深い川」と「風呂」は秀逸であろう。「足もとに流れる深い川」で問題となる事件は、主人公が友人たちと釣りに行った山奥の川に浮かんでいた女性の全裸の死体にまつわることである。また「風呂」には、登校途中で車にはねられてしまい、意識不明の状態に陥った幼い息子を見守る両親が描かれている。ここには、死が直接的に描かれているわけではないが、死の予感と両親の不安をめぐるサスペンス仕立ての短編となっている。
さらには、「愛について語るとき我々の語ること」で語られる「愛の形」は、愛するあまり女に暴力を振るう男であり、また愛するあまり銃口を自らの口に向け自殺をはかる男である。「出かけるって女たちに言ってくるよ」にいたっては、声をかけた女の子に無視された男が彼女たちを石で殴り殺すむごたらしい終り方となっている。


こういった「暴力性」に関しては、フラナリー・オコナーに負うところが多いんじゃないかと想像するんですが、そういうカーヴァーの作品に間違いなく影響されたと思われるのが村上春樹さんです。春樹さんの「暴力」に対する興味に関しては、『ねじまき鳥クロニクル』が代表する一連の長篇を読めば明らかですし、短篇の中にも秀作が多いです(「納屋を焼く」とか「沈黙」なんかもそうですね)。

暴力、殺人、死が目立つ短篇集であるが、つまるところ、そうしたことに結び付く原因は言葉による理解ができないことにある。二組の夫婦が愛について語り合う「愛について語るとき我々の語ること」で語られていることは、いくら語っても愛についてのコンセンサスは得られないということである。しかし、カーヴァーはなぜそうしたコミュニケーションの断絶が生じたのかを描かない。読者が眼にするのは、既に断ち切られた関係と、そこから生じる緊張感である。ある批評家の比喩を引用すれば、「カーヴァーの作品は、水に投げこまれた石が作る波紋を追いかけている」のであり、読者はその波紋をつくった石がどんなものなのかを見ることができず、ただ目に映る波紋という事態の推移を見守るだけなのである。
したがって、なぜそうなったのかは分からず、そのとき、その場の一瞬の緊張感を読み解くのが、カーヴァーの読者の特権といえるかもしれない。そしてその緊張感を支えているのは洗練された言葉しかないだろう。ある批評家は氷山に喩えて、カーヴァーの文体とヘミングウェイの文体とを比較し、「ヘミングウェイの洗練された文体は語られない氷山の八分の七が水面下にあることを暗示しているのに対し、カーヴァーの文体は、水面下に氷山の八分の七が存在しないのではないかと、もしくは確かめることができないのではないかと感じさせる」という趣旨のことを述べている。悪く見れば、会話が淡々として、重みがなくつかみどころがないような印象さえ受けるかもしれない。しかし、それは読者に対してもったいつけるような文体ではない。あえて語らないことで、あるいはただ軽快に言葉を弄ぶことで、読者にその文体の背後にあるものを暗示させるようなものではない。ジェイ・マキナニーは、「カーヴァーの言語とヘミングウェイのそれは……簡潔さと明晰さ、反復、話し言葉に近いリズム、外見描写の正確さ」の点で似ていると指摘したうえで、カーヴァーの文体にはヘミングウェイの「ロマンティックなエゴイズム」はないと述べている(「レイモンド・カーヴァー――その静かな、小さな声」『マリ・クレール』一九八九年十二月号、村上春樹訳)。



カーヴァーはもったいぶった言い方はせずに淡々と簡潔に語るのである。そして、その語りの圧巻が言葉のやりとりである会話に表れる。この短篇集でカーヴァーが描くのはダイアローグにおける緊迫感、崩壊感である。
そのとき、崩壊するのはいつも男である。「深刻な話」は、夫婦喧嘩を描いた短編である。感情が爆発して夫は灰皿を投げつけようとするが、「それは私たちの灰皿よ」という妻の声で投げることができなくなってしまう。妻は「やめて」と叫んだのではなく、物の大切さを諭すように、「それは私たちの灰皿よ」と言ったのだ。予想だにしなかった妻の言葉に夫の思考は停止し、言葉を失ってしまう。「見晴らし台」にしても、浮気をした夫に離婚を迫る妻に対して、夫は言葉を発することができないし、「菓子袋」に登場する主人公の父親にしても、自分の浮気が原因で離婚したのだが、父親は何も語らぬまま妻のもとを去っている。妻、女性に言いまかされてしまい、あたかも言葉の特権を剝奪され、語ることができなくなり、ただ独り茫然と立ちつくす男の姿がここにはある。そこでは、男たちは多くを語ることができず、「不能化」している感がある。「ダンスしないか?」でガレージ・セールをしている無口な男の姿も、妻に去られてしまったことを暗示しているだろう。


「妻が失踪する」というのは村上春樹作品にとってはお約束感があるモチーフですよね。あるいはこういうのもまたカーヴァーの影響下にあるのかもしれません(ただし、アメリカ文学の主要モチーフのひとつでもあるんですが……)。
カーヴァーの作品では、とり残されて孤独な境遇にいるのはたいてい男である。悪女的な女性も天使的な女性もカーヴァーの作品には登場しないし、男の勝手なエゴが描いたような「理想的な女性」もカーヴァーの日常生活には出てこない。その意味で、フェミニズム的視点からの読みが新たな観点を提示してくれるかもしれない。


(1) 入手できなかった『怒りの季節』(一九七七年)には『お静かにねがいます』に収録されなかった八つの短編が収められており、そのうち、「身勝手」、「ダミー」、「距離」、「私のもの」の四編は書き直され、それぞれ「菓子袋」、「父を殺した三番目のこと」、「何もかもが彼にくっついていた」、「ある日常的力学」としてこの『愛について語るとき我々の語ること』に収録され、『足もとに流れる深い川』については同じ題名で、短く書き直されている。
(2) 言及しなかったが、一九八三年に出版された『焔』にも「距離」を初めとして「雉子」、「足もとに流れる深い川」など七編が収められている。


つづきます。



   

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