デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その58

 
今度は山西治男さんによるカーヴァーのブックガイドを紹介しましょう。カーヴァーに馴染みのない方にも分かりやすく作品を説明しています。題して「レイモンド・カーヴァー図書館」です。

A 短篇集
★『お静かにねがいます』(一九七六年)
この短篇集には、一九六一年の「父親」から、一九七五年の「コレクター」までの作品が収録されている。カーヴァーが描く登場人物は、どちらかと言えば「ブルー・カラー」のアメリカ人であり、不幸のどん底にいるわけではないが幸福ともいえない人々であり、また夫婦でいえばどこかしっくりとこんい夫婦が多い。確固とした人生観はもちえず、一日一日を生活のために過ごしている人物である。そして、カーヴァーはそうした人間のありきたりの日常のなかでふとしたことで亀裂が走り、捉え難い精神的空白を感じる瞬間を捉える。精神的空白、えも言われぬ不安。それは、ただ感じることができるだけで、理性的に捉えることはできないものである。『お静かにねがいます』において、その精神的空白が生じるきっかけとなるのは多くは「見る」という行為によってである。
「太った男」では、主人公がウェイトレスをしているレストランにどこもかしこも大きく、特に指が異常に大きく感じる男がやってくる。男がコース料理を心から美味しそうに食べる姿を「見て」、主人公は「何かを捜している」自分に気づく。何かを捜し、「何かを待っている」自分ではあるが、それが何かははっきりとはわからず、ただ人生が変わり始めたことを感じている。また、自分の妻にダイエットを勧める話の「ダイエット騒動」も失業中の夫が、働く妻のスリムではない身体つきを盗み「見た」ことが起因となって騒動が始まっている。
「見る」という行為は、自分が見ていることを相手に知られないかぎり安全な立場にいられる。その立場を利用し、しかもそのもっとも屈折した形が「窃視、のぞき見」だろう。その場合、自分が見られずに相手を見ることで、何らかの精神的悦楽を得ることができるだろう。「考えただけで……」はまさにそういった「のそき見」的作品である。ある夫婦が、Tシャツとバミューダのスタイルで裏庭に現れる妙な男とその男の家にいる女を相手に見えないように「窓」から様子を窺う。夫妻はその行為によって、言い知れぬ違和感を感じ取る。
この短篇集には、精神的悦楽ではないにしろ、「見る」行為によって、何らかの精神的影響を受ける人物が多く描かれている。ここで言う、「見る」行為、「のぞき見」とは、D・ボクサーとC・フィリップスが指摘しているような「窃視症」(voyeurism)である。それは、「単に性的なのぞき見なのではなく、どこか遠くにあって、手に入れることができない自我との憧憬的同一化」である(『アイオワ・レビュー』10、一九七九年)。つまり、自我が現実の自我と理想の自我に分かれているということである。換言すれば、「自我の分離とは、自分自身のアイデンティティ、人生から遊離していると感じる」ことである。自分が自分でないという感覚、あるいは精神的空白と言ってもいいだろう。先の二人の批評家は、この短篇集を織っている二つの糸は「窃視症」と「自我もしくは精神の分離」であると簡潔にまとめている。その意味で最も典型的な例は「隣人」である。同じアパートに住む、隣人ストーン夫妻が出張と休暇を兼ねて出掛け、ミラー夫妻は留守宅を任される。ミラー夫妻は留守宅を預かるどころか、二人して他人の家を物色する。酒を勝手に飲み、服を着たり、写真を見たりする。二人とも時間を忘れてしまうほど、他人の家にいることに快感を覚えるのである。やがて、妻のアイリーンが鍵を中に入れたままロックしてしまうが、夫のビルは「心配ないさ」と言って、二人は廊下で抱き合う。他人の内面をのぞき見ることによって、羨まししく感じている隣人と自分たちとを「同一化」する二人の姿がここには描かれている。
この短篇集に収められた二十二編のうち七編に――「あなたお医者さま?」「アラスカに何があるの?」「サンフランシスコではどんな暮らしを?」「ねえ、なぜなの?」「何だと言うんだ?」「お静かにねがいます Will you please be quiet,please?」――疑問文のタイトルがつけられていることも興味深い。そのこと自体に「嘆き、苦痛」の声を聞き取る批評家もいるように、「窃視症」と「自我もしくは精神の分離」が基調となっているこの短篇集は、全体として、ペシミスティックな印象を与えている。とはいえ、「見る」行為(sight)が単なる傍観者的な立場にとどまらず、自己の内面へ向かう洞察(insight)へと繋がることを予感させる作品もある。「自転車と筋肉と煙草」と「お静かにねがいます」がそうである。
「自転車と筋肉と煙草」は煙草をやめて二日目の日に父親エヴァン・ハミルトンの身の上に起こる話である。彼は息子の友だちの家へ呼び出される。息子が借りていた友だちの自転車が壊され、なくなってしまったのがその理由である。自転車を借りた三人のうち、一人の親は顔を出さず、顔を出したバーマンの父親とエヴァンは言い争って喧嘩となる。エヴァンは相手を押さえ込んだが、怪我をしてしまう。そんな強い父親の姿を見た息子は、父親の筋肉を触りたいと言い、ここで親子は一体感を持つようになる。そのことは、眠りにつこうとする息子が部屋のドアを閉めないでほしいという言葉に象徴されている。
一方、「お静かにねがいます」は長めの作品で三部構成をとっている。
〔一部〕 ある一点の曇りを除いては、子どもも二人いてこの上なく幸せなワイマン(高校教師)、マリアン(短大講師)夫妻の結婚の経緯が語られる。唯一、夫のワイマンの心を曇らせていたのは、数年前の出来事で、あるパーティーで妻がある男と少しの間いなくなったことである。ある日、夫が過去のことだから正直に話してほしいと言って、そのことを持ち出し、妻がそれに答えて語るうちに、ワイマンは厳しく問い質し次第に興奮していき、一方マリアンも語れない状態になる。〔二部〕マリアンを殴ったワイマンは家を飛び出し、夜の街を彷徨い歩く。バーで酒を飲んだり、ポーカーをやったりする。光る海を見たくなり、桟橋へ行く途中で一人の黒人に襲われる。〔三部〕家に戻ると、家の中は静かで、子どもが起きてくる。怪我をしている父親を見て大騒ぎをしていると、妻が起きてくる。トイレに入って自分の顔を「鏡」で写して見て、考えているところへ、妻が慌てふためいてドアをノックする。ワイマンは「頼むから静かにしてくれないか」と妻に向かって言う。風呂に入ったあとベッドにいるワイマンの身体を優しくさすると、かれは「巨大な眠り」の中に落ちていくような気がする。
〔二部〕 二つの作品とも、ある事件をきっかけとして精神的繋がりが作られたことを暗示する明るい面があると思われる。とはいえ、「お静かにねがいます」のなかには、カーヴァーの使う、分離した自我を表すシンボリックな行為も同時に描かれている。それは、自分を鏡で映してみることである。再度、D・ボクサーとC・フィリップスの意見を引用すれば、「鏡がカーヴァー的な精神的な分離の象徴ならば、窓はそれと対になる窃視症のシンボル」であり、「カーヴァーの眼が窃視症の眼なら、声は精神的な分離の声である」。
〔三部〕 その他、ヘミングウェイ的な文体の簡潔さと日常生活の背後にあるカフカ的な「不気味な」世界が融合した作品として、写真のワンショットのような「父親」や見知らぬ女から電話がかってくることで物語が展開していく「あなたお医者さま?」、雨の中に突然部屋とカーペットの掃除をしに男が訪れる「コレクター」がある。また、西海岸北部の自然を舞台にした狩猟――「60エーカー」や「鴨」――、釣り――「誰も何も言わなかった」――といった作品もある。


つづきます。



   

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