デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その56

 
越川芳明さんの寄稿文の続きです。

北西太平洋岸の自然への回帰

八四年一月、カーヴァーはテスが北西太平洋岸のポートエンジェルスに新築した家に引っ越した。それは丘の斜面に建てられ、空に向かってガラスが張られているので「スカイハウス」と名づけられていた。鳥と海峡と星を家の何処からでも眺められるので、カーヴァーにとっては、少年時代に楽しんだ自然の景色をふたたび堪能できる場所だったといえるだろう。カーヴァーは故郷に帰ってきて、しかも長年夢に見て果たせなかった専業作家になり、何の気兼ねなく仕事に打ち込める環境の中で生き生きしていたに違いない。
ここでも、カーヴァー自身が予期していなかったことが起こった。短篇集『大聖堂』を出版した後の二年間、カーヴァーは詩作に没頭したのだ。シラキュースでは、人気作家になったことで電話や人の訪問で悩まされ、あるいは大学での付き合いなどがあり、かえって創作時間がなくなっていたカーヴァーは、そうした喧騒から逃れるかのようにポートエンジェルスにやってきた。静かなところで短篇を書こうと思っていた。デスクに腰を下ろして、静かに過ごす日がほぼ一週間ほど続いた。それから、雑誌を手にとって、いくつか他人の詩を読んでみた。あまり自分の好きな詩ではなかった。これなら僕の方がうまく書けると、それから毎日のように、なんと六五日間も詩作に取り組んだ。それまで詩などまるまる二年間も御無沙汰だったから、これはカーヴァー自身も驚いてしまった。そのとき書いた詩の多くは、のちに『水と水の交わるところ』(八五年)に収められることになる。その後、南米のブラジルやアルゼンチンへの朗読旅行を含めて、数ヶ月のブランクがあったが、南米から帰国後、カーヴァーはふたたび詩を書き続ける。まるでアル中が酒を手放せないのと同じように、カーヴァーは一気に詩にのめり込んだようだ。それらの詩はのちに『ウルトラマリン』(八六年)などの詩集に結晶することになる。
考えてみれば、カーヴァーはもともと二十代の頃には詩と短篇の両方に手を染めていた。小さな出版社ながら、かれがこの世に出した最初の二冊はいずれも詩集であり、それぞれ三十歳のときの『クラマスの近くで』と三二歳のときの『冬の不眠症』だった。




ある意味では、詩人として出発したといえなくもないのである。それがいつしか、詩は時おり書くだけになり、短篇を書いていない間だけ詩を書くという程度になっていた。
それが突然、このような詩神の訪れに恵まれ、カーヴァーは詩の中で過ぎ去った人生を振り返る機会に恵まれる。カーヴァーの書く詩は「散文詩」あめいは「ナラティヴ・ポエム」と呼びうるものだが、かれ自身も認めているように、短編小説より自伝的な色彩が濃厚であり、とりわけ『水と水の交わるところ』はそうだった。「一九五四年、ウルワースで」から始まり「テスのために」で終わるこの詩集では、たとえば、父や弟と鴨猟や鱒釣りをして過ごしたワシントン州ヤキマでの少年時代や、苛酷なまでに育児に追いまくられ、創作もままならず「欲求不満で徐々に気が変になっていた」という二十代の頃に、想像力の中で自在に戻っている。あるいは酒びたりの娘にアルコールをやめるように諭す父になったり、あるいは自分の死を思い良き伴侶テスに会えたことを感謝したり、人生のさまざまな段階のカーヴァーの姿が浮かびあがってくる。家の書斎から間近に見えるファン・デ・フカ海峡を眺めながら、かれは詩の中で水の優しさや治癒力を讃え、ウィリアム・スタルのいうように、「川の流れや、大小の渦巻きにも似た自分自身のふたつの人生」を辿っていたのだ。


こういう話を聞くと胸がいっぱいになってしまいますね。また撫でさするようにしてカーヴァーの詩集を開いてみたいと思います。

かつてカーヴァーは語ったことがある。故郷を離れてあまりにあちこちを放浪したために、駆け出しの頃抱いていた「西部出身の作家」というアイデンティティが失われてしまった、と。しかし、いまや揺るぎもしない「アメリカの作家」になり得て、ふたたび太平洋北西岸のワシントン州という故郷にとっしり腰を落ち着けたことは、少年時代にそこで培われた自分自身の根っこを再確認させたに違いない。西部で生まれ西部で死んだ父のように、自分自身もそんな「素朴な人生と死」を迎えられたらいいのにと謳った「トレッスル橋」という詩に、それは典型的に表わされている。
さて、カーヴァーは一年半ほどそうした詩作の日々を送った後で、ふたたび短篇を書き始める。それは前にも触れたようにおもに『ニューヨーカー』というメイジャーな雑誌に寄稿したものである。カーヴァーはすでに吹っ切れていた。もはやマイナーに留まる必要も気持ちもなかったし、じっさい、そうした作品には、前作『大聖堂』でそこから大転換をはかった「ミニマリズム」のかけらもなかった。前作と同様にガードナーやリッシュというより、むしろチェーホフを先人と仰いで書かれたものだったからだ。かつて、カーヴァーはチェーホフの手紙の中の一節を引いたことがあった。それは「友よ、記憶に残るようなとてつもない偉業を成し遂げる偉人などを書く必要はないんだ」といった内容だった。「引っ越し」や「誰かは知らないが、このベッドに寝ていた人が」や表題作となった「象」などを収めた新作短篇集は重厚に暗い色調を帯びながら、しかしカーヴァーが生涯変わることなく主人公として描き続けてきた凡庸な市井人の、「啓示」の瞬間を捉えようとしたものだった。カーヴァーは自信をもって、この先おそらくこの線で行こうと思ったに違いない。
そんな矢先の突然の吐血だった。以後、一年弱にわたって闘病生活を強いられながらも創作を続けた。癌と戦いながら、チェーホフの死を扱いながら自分の死を見つめた遺作「使い走り」を書いたり、おのれの死を悟ったのか、いわば遺言代わりの自選短篇集の準備をしたり、テスの手助けを得て若い頃書いた詩に手を加えて最後の詩集『滝までの新しい小径』を仕上げた。
翌年の三月に、脳腫瘍の疑いが出て、一週間の半分はシアトルの病院まで放射線治療を受けに行かなければならなかった。五月には、自選短篇集が出版され、「ニューヨークタイムズ・ブック・レビュー」の第一面で扱われて、評者の若手作家マリリン・ロビンソンはもはやカーヴァーは「ミニマリズムのキャンプ」から引きずり出すべきだといった。同じく五月には、三つの栄誉が一度に転がり込んできた。すなわち、ブランデイス大学から、優秀創作芸術賞の表彰を受け、ハートフォード大学よりは名誉文学博士号を授与され、さらに、アメリカ芸術院の会員に迎え入れられるのである。
しかし、カーヴァーの死期は迫っていた。六月にふたたび肺に癌が現われるのである。いよいよ自分の死を観念したのだろうか、そんな暗い予感の中で、カーヴァーは究極的には救われないまでも、人間の心の中でささやかな救いとなるようなことを思い付く。六月十七日、テスを連れて、ワシントン州からは生まれ故郷オレゴン州を挟んで、その南にあるネヴァダ州のギャンブルの町のリノに出かけていき、そこの小さなハート・オブ・リノという教会で結婚式をあげるのだ。
テスの「スカイハウス」から車で七、八分くらい内陸部に入った峰の部分の上にあって、ほぼ半年前にカーヴァーが購入したといわれる家「リッジハウス」は、ほとんどかれの病を治すことに専念する場所となってしまっていた。かつて、カーヴァーは不良時代のことを悔やんでいるかと訊かれて、こう答えたものだった。
「いまとなっては何も変えられないし、降海している余裕なんかもない。いまじゃ、ああした人生もただただ過ぎ去って、それを悔やむことなどできない。わたしにはいまを生きることしかできないんです。当時のことはもはや過ぎ去った昔のことで、まるで十九世紀小説の中の登場人物の身に降りかかったことみたいに、遠い昔のことのように思える……じっさい、過去なんてわたしにとっては異国であり、そこじゃまったく違ったことが繰りひろげられている……わたしはどうもふたつの人生を送ったみたいな気がするのです」と。


越川さんの寄稿文は今回で終わります。

でも、今シリーズはつづきます。



   

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