デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その54

 
越川芳明さんの寄稿文の続きです。

人生の第二章

しかし、そうしたカーヴァー変身の謎に迫るためには、そうした変身が明らかになる少し前の、いわばアル中恢復期のカーヴァーについてまず語らねばならないだろう。
一九七七年に酒を断ったカーヴァーは、果してもう一度作品が書けるかどうかわからなかったという。前年に遅まきながら処女短篇集『頼むから静かにしてくれないか』が大手出版社のマグロウヒル社から出て、全米図書賞の候補にあがったにもかかわらず、私生活は崩壊していた。二十年間におよぶ結婚生活も終局を迎えていた。だらだらと引き延ばされていた破綻もいよいよ決定的になっていた。おそらく、「親密」という短篇にあるように、妻から愛想をつかされ、それでも訪ねていって、惨めに彼女の足もとにひざまずいたこともあったかもしれない。
アル中の恢復と創作の再開にはまず何よりも時間が必要であったろうが、それでもカーヴァーにとってプラスに働いたいくつか特筆すべき印象的な事件もあったようだ。たとえば、処女短篇集を出してくれたマグロウヒル社の編集長がアル中のカーヴァーに長篇小説を書くように、アドヴァンスを払う約束をし、じっさいに払ってくれた。カーヴァーもそれに前後して、酒を断つべく自分自身と格闘していた。結局、そのとき約束された長篇小説は書かれずに終わったが、カーヴァーが酒を断つ際の一つの励みになったことは確かなようだ。
さらに、酒をやめて半年もたたぬ、七八年一月には、華氏マイナス三六度という厳冬のヴァーモント州プレーンフィールドにあるゴダール・カレッジに呼ばれて、二週間ほど大学の学生用の宿舎で過ごした。そのとき同じ宿舎で、トビアス・ウルフに出会った。ウルフは文芸誌に短篇がいくつか掲載されていたものの、まだ著書がなかった。一方、カーヴァーは長いこと書いていなかったので、作家であるような気がしなかった。不安で眠られぬ夜を過ごしたカーヴァーが明け方の五時に台所に行ってみると、なんとウルフがサンドイッチを食べ、ミルクを飲んでいた。ウルフは慢性的な不眠症にかかっていた。アル中が癒えきれぬ者と不眠症に悩む者、ふたりの作家はともに自らの「弱さ」を知り抜いていた。カーヴァーはのちに「友情」という素晴らしいエッセイでこう書いている。「この明け方、台所でふたりして互いにいろんな話を喋り合うということが大切なことに思えた。外はまだ暗く、凍てつくような寒さで、ときどき木がぽきぽきいっているのが聞こえるほどだった。流しの上の小さな窓から、北極光が見えそうだった」と。こうした出来事は、まさに「ささやかたけど、役にたつこと」だったかもしれない。
一方、ウルフはこの日から始まった友情について、あるエッセイを書いているが、その中でカーヴァーの強烈な印象として、かれの「飢え」に焦点を当てている。その一つの現われが、カーヴァーの食欲であり、かれの口はつねに煙草を吸うか、何か食べているか、飲んでいるかして、休むことなどなかったという。もう一つは、かれが人の話す話を貪欲に求めていたということだ。「レイは人間的な規模の物語を飽くことなく聞きたがった。われわれの善意がわれわれの環境や本性に対して強いられる終わりのない負け戦についての物語を、だ」
とくに、カーヴァーが聞くのを喜んだのは、「絶対に人にはいうなよ」といって始める打ち明け話であり、ウルフのいう言葉に「そんな!」とか「まさか!」とか大声であいづちを打ちながら、頭を少し傾げ、片目をまるで人が狙いを定めるみたいに、ちょっと細めて聞いていた。自分の短篇や詩の滋養になるものは、何でも盗んで吸収したいという気持ちで必死だったのかもしれない。
また、ちょうどその頃、七七年の十一月にテキサス州のダラスで開かれた文学フェスティバルに招待されたカーヴァーは、のちに良きパートナーとなる詩人のテス・ギャラガーと出会っている。翌年それより九ヶ月後に、エルパソのテキサス大学に招待されたとき、かれはテスとの再会を果した。テスもまたすでに二度結婚生活につまずいていて、カーヴァーとの共通点も多かった。ふたりとも労働者階級の出だったし、太平洋北西岸のワシントン州が生まれ故郷だった。父がアル中だったのも同じだった。ふたりはエルバソで「ルームメイト」として一緒に暮らすようになった。もちろん、カーヴァーには妻マリアンと二人の子どもがいたので、テスはいわば愛人だった。しかし、ふたりはそうした共同生活の中で、テスの言葉を借りれば「信頼や希望の風化状態」から一緒に立ち直ろうとした。その頃を回想して、テスはこういっている。「もう皆さんが事情をご存知のように、レイはわたしたちが一緒に暮し始めるほぼ一年前に酒をやめていました。まだ手がぶるぶると震えていました。ふたたび書けるようになるかどうか、わかりませんでした。電話が鳴ると、文字通り電話から走って逃げたものです。レイはすでに三度も破産の憂き目を味わっていたわけですからね。わたしのVISAカードを見たとき、目をらんらんと輝かせたことが、いまでも目に浮かびます」と。
一度は身体のみならず、精神的にも崩壊しかけたカーヴァーにとって、こうしたテスとの生活がどれほど治療の働きをしたことだろう。たんなる励ましの言葉よりも、そばで彼女が創作をしている姿こそが励みになったに違いない。カーヴァーは大学の創作科について語ったとき、それは文学を志す若い作家の卵たちが、いったん社会に出れば誰も気にかけてくれないような自分たちの情熱を共に温め合う場として、励みになることがあっても害にはならないだろうと語ったことがある。いま、作家としてふたたび第一歩から歩み始めなければならないカーヴァーにとって、テスはこれ以上はないと思える格好の同志だった。テスによれば、仕事は別々の部屋でしたが、午後の散歩はいつも一緒で、レイがテスに短篇の書き方を教え、テスがレイに詩の話をしたり、かれの作品の構想やタイトルなどを一緒に考えてやったりしたという。かれの作品に最初に目を通すのも彼女だった。カーヴァーはテスとの共同生活を始めてから出した全作品、つまり『愛について語るとき……』以降の短篇集や詩集のすべてをテスに捧げている。かれ自身もこういっていたものだった。「〔本をテスに捧げるのは〕たんなる愛情とか好意の証なんかではないのです。むしろ彼女に対する大いなる尊敬と、彼女がくれた援助やインスピレーションに対する感謝の気持ちからなのです」と。
しかし、とりわけカーヴァーの精神的な治療によかったのは、創作の行為それ自体だったように思える。酒をやめた理由を訊かれて、「ただ生きたいと思ったという事実しかわからない」と答えていたカーヴァーだが、生きのびて、もう一度書きたいという微かな願望が心の底に残っていたのかもしれない。かれがいうように、創作への「焔」は消え去ってしまっても、火の元となるものは消し炭のかたちで辛うじて残っていたに違いない。カーヴァーは後年『ウルトラマリン』(八六年)に収められた「絵を描くのに必要なもの」と題した詩の中で、「キャンヴァス以外のものすべてに対する無関心/機関車のようにしゃにむに働く能力/鉄のような意志」と謳っている。いま酒をやめて、立ち直らねばならないときに、たとえテスという素晴らしい松葉杖があっても、自らが立つためにまず支えとしなければならないのは自らの脚であり、それは創作に専念することに他ならなかった。だから、カーヴァーにとって、後年の創作には精神のリハビリ的な意味もあったわけだ。
具体的に見てみると、まず「リハビリ」としてやった創作の手始めは、小出版社から出した短篇集『怒りの季節』(七七年)の中の数編を書き直すことだった。もともとカーヴァーは文章を削ったり付け加えたりして、書き直しというか推敲するのが大好きで、最初の草稿はあまり時間をかけずに書いて、それから何十回となく原稿に手を入れたらしい。それはまるで大男が背をかがめて手の平に載るような小さなミニチュア模型を丹念に造っているような姿を連想させるが、たんにそうした手仕事が好きだからというより、そこにはむかし二十歳そこそこで大学の創作科に入った頃、作家のジョン・ガードナーにたたき込まれた信念があった。つまり、ガードナーのクラスでは、課題として、短篇を書く者にとって二十頁前後の第一章とそれに続く作品全体のレジュメの提出を義務づけられていたが、それを一学期の間に最低十回は書き直させられたという。ガードナーにいわせれば、作家は自分の書いているものを「見る」ことが大事であり、それは書き直しによって可能になり、したがって作品を書き直すことは、どのような段階にある作家にとっても命なのだ。まして、短篇であれば、句読点一つでもおろそかにできず、作品の中のすべての言葉が重要なのだ。そういうことを、学生の手直しするへたくそな習作をガードナー先生が何度も忍耐強く読む姿から教え込まれたわけである。
しかし、このアルコール恢復期にカーヴァーが行なった書き直しとは、たんなる字句の訂正といった生易しいものではなかった。一言でいえば、のちに「ミニマリズム」と呼ばれて評価されることになる「省略の美学」の実践だった。処女作「頼むから静かにしてくれないか」を大手出版社に売り込んでくれた『エスクァイア』誌のゴードン・リッシュは、ガードナーより過激に、文章を骨の髄まで削り取り、そぎ落とすことを奨励していたそうだが、カーヴァーはある意味でヘミングウェイやカフカの短篇をほうふつさせる「ミニマルな」短篇に、かつての作品を作りかえていった。たとえば、もともと『怒りの季節』に収められていた「足もとに流れる深い川」は、山の中に友だちと釣りに出かけていった夫が、川に浮かんでいた若い女性の死体を放っておいたために、警察から嫌疑をかけられる話だが、そうした事件を妻の視点から悪夢として心理的に描いた二十頁前後の短篇だった。それをカーヴァーはほぼ半分の長さに縮め、結末も変えてしまった。
このようにかつての作品をこれ以上はないくらいに削り取ることで、日常生活において、われわれが感じてはいるが言葉にはきれない不安や恐怖や空しさなどが強調される作品に作りかえた。そして同時にそうした「省略の美学」に基づいて、アル中時代の屈折した経験や思いを扱った新作の短篇を十いくつ書いた。たとえば、「ダンスしないか?」は、妻に逃げられた暗い中年の男が庭に家具などを広げて「ヤードセール」をして、通りがかりの若いカップルと一緒に酔っぱらい、かれらに新婚ベッドを売り払う話だし、また「風呂」は、人生をつつがなく穏やかに生きてきた中年の夫婦の話で、ある日息子が交通事故に遭い入院し、しかも真夜中不気味ないたずら電話に悩まされるといった話だ。この時期のカーヴァーはこのように日常生活の中でふいに襲われる不安と恐怖を扱う短篇を多く書いた。
こうして、「ミニマリズム文学」の結晶ともいえる短篇集『愛について語るとき、われわれの語ること』が生まれることになる。しかし、カーヴァーの「ミニマリズム」とは、たんに当人以外の人間にとってはどうでもいいような日常生活のちまちました苦悩や不安を書いたから、そういわれるのではない。むしろ文字通りおのれの身を滅ぼす寸前までいったぎりぎりの経験を、それ以上は削れないというところまで贅肉をそぎ落し、贅肉どころか骨まで削って凝縮させたぎりぎりの文章によって書いたという事実によってこそ、そう呼ばれるべきなのだ。そうでなければ、「いわないことによってこそ、より多くを語る」というミニマリズムの逆説も働かないだろうから。

さすが越川さん、鋭い分析ですね。

つづきます。



   

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