デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その53

 
越川芳明さんの寄稿文の続きです。

「ふたりのカーヴァー」の神話

いわば限りない名声と栄誉のまっただ中にいるカーヴァーなのに、なぜにこれほどまでに偉ぶることなく謙虚になれるのだろうか。確かにカーヴァーはインタビュア泣かせのシャイな作家だった。か細い声でぼそぼそと喋るから、その内容がうまく聞き取れないのだ。勢いインタビュアはカーヴァーの方に身を寄せていくことになる。弟子のひとり、ジェイ・マッキナニーも一周忌にあたって物した文章の中でこう回想している。「カーヴァーの喋り方は、『物静かな声』というような生易しい言葉ではとても追いつけないような代物だったし、それは話題が一般論や規範といった領域に入っていくと輪をかけてひどくなった」と。
しかし、それだけではないだろう。カーヴァーは人生の転機になった或る一日について語ることを好んだ。一九七七年の六月二日。それはかれが完全に酒を断った日だ。その年かれは合計四度「僕が電話をかけている場所」に描かれるような、アル中恢復センターや病院に入ったり出たりした。酒を断ってからも初めの一ケ月は、一日に一度か二度は通称AAという、アルコール中毒者の更生のための団体に通わねばならなかったという。かつて父もアルコールのせいで職場で取り返しのつかない事故を引き起こし、それがために職を失い、ついに神経衰弱に陥り暗い晩年を送っただけに、同じ運命を辿りつつあったカーヴァーは心底からアルコール中毒からの帰還をうれしく思ったようだ。
かくして酒に溺れてすさんだ生活をして身を持ち崩し、家族を解散に追いやった不良時代の「バッド・レイ」と、贖罪と失地恢復のため、とりわけ自己救済のために心を入れ換えて創作に専念した「グッド・レイ」という、ふたりのカーヴァーの神話ができあがる。じっいカーヴァーのあまりの変わりように友人たちは驚きの目を見はった。かつて、酒のせいで友人たちはほとんどかれのもとを去り、かれの触れたものはすべて「荒地」と化し、「アル中も末期になると、残っているものなんて、警察と緊急治療室と法廷以外には、何もなかった」。極端なことをいえば、一度はおよそ自分自身の「生命」を除いてほとんどすべてを失い、友人も家族も、果ては創作の情熱までも失ったカーヴァーの見事なまでの改心というかヘンシンえに、多少そうした事実が自他ともに誇張されて語られた嫌いがなくもない。
晩年、自らが新しく編集長に就任した出版社にカーヴァーを移籍させるほどに、かれと深い親交のあったゲイリー・フィスケットジョンはこういってる。
「カーヴァーのふたつの人生については、多くのことが書かれている。ひとつは、アルコールと苦い失意からなる人生、もうひとつは、禁酒の喜びといやます名声の人生。そしてじっさい、レイはよくそのことを口にした。彼の生活が大きく変化しはじめたその日(一九七七年六月二日)からすでに。とはいえ、こうした記念となる日付はそれだけのもので、一種の里程標でしかない。彼のふたつの人生は、川が海に注ぐときの塩と真水のように、おたがいにいりまじっていたのではないかと思う」(宮本美智子訳)と。
ふたつの人生の、あるいは「ふたりのカーヴァー」のどちらにもおそらく明と暗の世界はあるだろう。カーヴァーの作家としての日々を辿ってゆくと、けっして七七年六月以前の人生が地獄で、それ以降の人生が天国だと割り切るわけにはいかない。もちろん、以前の人生の方が、生活や育児に追いまくられ創作もままならなかったり、自分たちの夢も叶わなかったりして、より暗いものであったかもしれないが……。しかし、晩年のように印税によって生活が潤うことはなかったにしろ、作品への評価に関する限り、当時でもシリアスな批評からまったく黙殺されていたわけではなかった。たとえば、二四歳のときには、詩「真鍮の指輪」と短篇「牧歌」が、それぞれ『ターゲット』という雑誌と『ウエスタン・ヒューマニティ・レビュー』という文芸誌に載った。その知らせがある日、同時に届くという幸福を味わったカーヴァーだったし、二九歳のときには、短篇「頼むから静かにしてくれないか」が『最優秀アメリカ短篇集』の中に選ばれた。また三十歳で処女詩集を出したその翌年、かれは全米芸術基金より詩部門の「発見賞」を受賞している。三三歳のときには、『エスクァイア』誌に短篇と詩の両方が掲載され、三四歳のときには、ジョゼフ・ヘンリー・ジャクソン賞を受賞し、スタンフォード大学からウーレス・ステグナー創作助成基金を得ている。三五歳からは三年連続で、短篇が『オー・ヘンリー賞短篇集』に収められた。すなわち、「それは何?」(七三年)、「僕の身にもなってくれ」(七四年)、「あなたお医者さま?」(七五年)である。
こうして、徐々にではあるが作家としての評価が定着してゆくにつれて、同時にアルコール癖もひどくなってゆく。カーヴァーは、ちょうど二十代の終わりか三十代の初めのその頃、別に働き口を見つけて、仕事や育児の合間を縫って創作をしていた。いくら働いても赤貧に甘んじなければならず、子どもたちはまだ小さく書く場所も時間もなく焦っていた。かれ自身にいわせれば、「荷馬車いっぱいの欲求不満」を抱えていたのである。自らの人生の夢や、家族のために望んでいたことが実現しそうにないと絶望的な気持ちになり、唯一の逃避の場としてアルコールを選んだ。そして、一日中アルコールに浸ることになった。しかも、処女短篇集『頼むから静かにしてくれないか』が出るまで、三八歳まで待たねばならなかった。
ところで、「バッド・レイ」と「グッド・レイ」の両方を見知っていた作家のトビアス・ウルフは、不良時代のカーヴァーを酒の席で何度か見かけたが、アル中のひどさは顔を見れば一目瞭然だったという。「肌はやけに白ちゃけていたし、目はくぼんで用心深そうだった。後年の聡明なチェーホフふうの利発さなどはなく、そこに見られるのは神経質そうな狭量さだけだった。かれの顔のごく自然なオープンさを覆い隠す濃いもみあげに際だたされる狭量さだけだった。かれは大きな身体に居心地の悪さを漂わせ、すまなそうな雰囲気さえ漂わせていた」
その頃のカーヴァーの酒癖がどれほどひどかったかが窺われる面白いエピソードがある。七三年に、カーヴァーは「ライターズ・ワークショップ」という作家セミナーで全国的に有名なアイオワ大学に招かれる。カーヴァーはアイオワハウスという宿舎に泊まっていたが、同じ宿舎にやはりアル中の作家ジョン・チーヴァーがいた。ともに部屋にあるタイプライターなどには目もくれずに、朝からふたりして酒屋に買い出しに出かけては、二階上にあるチーヴァーの部屋でアルコールに浸かる毎日であった。だから、ほかの作家や学生たちが心配して、定期的にかれらを家に招いて食事を提供してやっていたという。いよいよその学年も終ろうという頃に、そうした善意や接待に対してお礼の意味をこめて、ふたりは一緒にビッグ・パーティを催すことにした。とりあえず町のホテルの宴会場を予約し、世話になった人たちに招待状を出した。ところが、パティの二、三日前になって、ふたりとも、それぞれ東海岸と西海岸に飛んでいかねばならない急用ができて、町を後にしなければならなかった。ふたりはパーティの当日に、アイオワ・シティに戻ってきて、最終的に手はずを整えることにした。しかし、ふたりとも酔っぱらって飛行機に乗り損ねてしまう。パーティの夜、招待された人々はホテルにいってびっくり仰天する。部屋にはホストがいないだけでなく、食べ物も飲物も音楽もまったく用意されてなく、ただがらんとした「巨大なゴビ砂漠のような部屋」があるだけだったかせだ。
これはトビアス・ウルフの回想録の一節からの引用であり、「グッド・レイ」が不良時代を振り返ってかれに語ったといわれる事柄である。後から振り返れば、このようにわらい話になるようなことでも、当時のカーヴァーにとってアルコールは深刻な問題だったのである。


カーヴァーもチーヴァーもボクにとって大切(かつ大好き)な短篇小説作家です。そのふたりにこんなエピソードがあったなんて全く知りませんてした。

考えてみれば、そうした自己破滅への道をカーヴァーは敢て辿っていた節もないではない。というのも、執筆時間や場所のなさからくるフラストレーションも、ひとつには、恩師のひとりであるジョン・ガードナーの教えを忠実に守って、『エスクァイア』を初めとする若干の例外を除いて、作品はもっぱらほとんど印税を当てに出来ない「リトル・マガジン」に送り続け、金銭的な困難さを招いていたことに由来したといえなくもないからだ。それは、ある意味では純文学というマイノリティに徹するということであるが、裏返していえば、カーヴァーが文学へのナイーヴな純粋さというか、文学への求道的な志しを持ち続けていたということを物語っている。それによって、現に自らの身も心もぼろぼろになるまでに、行きつくところまでいってしまった。
そうした一途な文学青年の一端を窺い知れるのは、カーヴァーが潔癖なまでにマイナーな同人雑誌や純文学雑誌にこだわっていたという事実からである。二十歳のときに、かれはカリフォルニアのチコ州立大学に入るが、ただちに大学新聞に文芸誌の創刊を呼びかける文章を寄稿する。じっさい、その直後『セレクション』という文芸誌を自らの手で創刊して、無謀にも詩人のウィリアム・カーロス・ウィリアムズに原稿を依頼し、奇跡的に、詩人から一編の未発表の詩を送ってもらうという快挙をやってのける。ハンボルト州立大学に転校してからも、そこの大学が発行している文芸誌『トイオン』の編集にたずさわったし、のちに三十代になってカリフォルニアの大学の創作科で教えるようになってからも、そこの大学で文芸誌『獲物』を創刊する。そういった具合に、マイノリティとしての純文学に対して、よかれあしかれ融通のきかない頑固さをカーヴァーはもっていたように思える。そうした純粋な一途さの裏返しとして、あるいは、そうした志しがうまく遂げられないことに対する苛立ちの現われとして、アルコールへの耽溺があったのではないだろうか。そういう意味では、カーヴァーはアメリカの無頼派詩人チャールズ・ブコウスキーに若い頃から憧れていて、「きみは愛の何たるかを知らない」という、ブコウスキーに捧げる詩まで書いたが、それは何ら不思議ではないのだ。
さて、『愛について語るとき……』で一応復活したカーヴァーだが、その後のインタビューで、駆け出しの頃の自分は、かつてガードナーが毛嫌いし、アメリカの雑誌でも原稿料の高さでは一、二を争うといわれる『ニューヨーカー』に作品を送るつもりもなかったし、読みもしなかったと答えていた。しかし、何が変わった。まるで何か吹っ切れたみたいに、むしろ積極的に『ニューヨーカー』に寄稿するようになる。八三年以降出版されることになる短篇集『大聖堂』や最新作『象』にも、もともと『ニューヨーカー』に寄稿した作品が多く収録されることになる。


そういうわけで(つまり『ニューヨーカー』経由で)村上春樹さんを初めとする多くの日本人作家(や文芸評論家)たちの眼にも触れることになり、結果的に我々もカーヴァーの作品を読めることになったわけです。ここでも出逢いの不思議さを感じないわけにはいきません。

こうしたカーヴァーの変身の謎を解くかぎは、ひとつはカーヴァーの作品の質の変化に注目することで、もうひとつは、かれの生活の変化に注目することで得られるかもしれない。しかも、それらは、まるで縦糸と横糸の織り合わされる生地のように、あるいは水と空の交わる水平線のように、互いに重なりあっている。

更につづきます。



   

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