デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その52

 
さて今度はアメリカ文学研究者にして翻訳家でもある越川芳明さんの寄稿文を紹介しましょう。

「レイモンド・カーヴァー評伝」です。

静かな死

レイモンド・カーヴァーは八八年の夏に、必ずしも平坦だったとはいえない五十年の人生の幕をとじた。
前年の九月に吐血し、肺癌であることが判明し、十月には左肺の三分の二を手術で除去した。春先までには、癌は脳にまで転移していたらしい。そうした脳腫瘍の恐怖、肺癌の恐怖の中て、カーヴァーは創作を続けた。五月には、二八年間にわたって書き続けた短篇小説の中から三十編を選び、手をいれて、さらに新作七編を加えて自選短篇集『ぼくが電話をかけている場所』を編んだ。遺書のつもりだったかもしれない。
六月にふたたび肺に癌が現われ、カーヴァーは観念したようだ。ほぼ十年間にわたって生活を共にしてきたテス・ギャラガーを正式な妻としてめとったのだ。そして、ふたりして急いでかれの最後の詩集『滝までの新しい小径』に取り組んだ。それが完成すると、アラスカにキングサーモン釣りに出かけた。海釣りは、少年時代に川釣りに親しんださすがのカーヴァーも馴れなかったようで、数年前にテスの弟に教わったというが、ひょっとしたら、このときもテスの弟が同伴したかもしれない。それはともかく、その後、シアトルの病院に入院したとき、ふたりはモスクワ行きを計画し、カーヴァーは冗談で、「きみより早く向うに着いてるかもしれない。旅するときは、きみより足が早いからね」と語ったという。
かつてテスに会う前のカーヴァーは三度ほど破産したことがあり、一向によくならない暮しに見切りをつけ、家族を引きつれて各地を転々とわたり歩いていたものだった。そうした生活苦から引越しを余儀なくされる移動とは違い、心おきなく旅行を楽しめる境遇にはじめておかれながら、そうした矢先に皮肉にも不治の病に倒れたときの発言である。それなのに、そうしたおのれの不運を悔やむようなところはなく、無念や悔しさなどとはなんとほど遠い軽やかな口調だろうか。
カーヴァーは亡くなる六ケ月前に、ポートエンジェルスに新しく自分の家を購入したばかりだった。「リッジハウス」と呼ばれるその家の居間にしつらえたベッドの上で、カーヴァーは明け方の六時二十分に、テスに看取られながら静かに息を引きとった。
前日の午後は、テラスに出て庭の薔薇を眺めながらのんびりと過ごし、最後の夜は、テスと一緒に、ソ連の映画監督ニキータ・ミハルコフの『黒い瞳』を観たという。なんという静かな死だろう。
最後の一年間はこのように闘病生活を強いられたカーヴァーだったが、しかし癌が発覚する前の数年間は、若い頃には望んでも得られなかった数々の栄誉や名声や成功に恵まれてもいた。八十年代のアメリカの、いわゆる「短篇ルネッサンス」について語るとき、ジョン・チーヴァーとともに必ず引き合いに出される作家としてカーヴァーがいた。現存する作家に対して、金銭の心配なしに無創作に専念できるよう五年間の期限付きでタックス・フリーの助成金を贈るという制度が新しく発足し、その第一回目の受賞者がかれだった。すなわち、「ミルドレッド・アンド・ハロルド・ストロース・リヴィング・アウォード」という賞であり、この受賞によってカーヴァーは創作一本でやっていけるようになり、それまで教えていたニューヨーク州のシラキュース大学での職を辞した。
同じく八三年には、カーヴァーの創作における新しい方向性を示唆する短篇集『大聖堂』が大手の出版社から出ていた。この中に収められた「ささやかだけど、役にたつこと」は、定評あるウィリアム・エイブラハム編の「最優秀オー・ヘンリー賞」に選ばれた。それからというもの、カーヴァーは選ぶ側にまわった。アメリカの現存する優れた短篇作家として、様々な短篇小説のアンソロジーの選者の依頼を受けたのである。文芸誌『鍬の刃』(八三年)のゲストエディターを初めとして、次々に『最優秀アメリカ短篇小説 八六年度版』(八六年)や『アメリカ短篇小説傑作選』(八七年)や『American・フィクション八八』(八八年)などの編者を務めた。
あるいは、病気が発覚する前の八七年の春。カーヴァーはテスを伴って、遊びもかねてヨーロッパに朗読旅行に出かけている。テスの手になる「ヨーロッパ日記」によれば、かれはパリやローマで自作の朗読を行なった。ローマ大学での「セッション」はこんなふにテスによって書かれている。
「セッションはうまく行く。質問をしたのはほとんどアメリカ人だった。ただし後ろの席にいた一人のイタリア人がこういうことをいった。『ヨーロッパの文学者は伝統的にアメリカ人の著作を軽蔑してきたが、近ごろでは、思うにそれも変化しつつある』と。あたかもヨーロッパ人がいまではアメリカの方に顔を向けている、とでもいいたいかのように。ある大学教授は、それ(アメリカ人の著作への軽蔑)は、けっして『ヨーロッパ人』の認識などではないと反論した。『どうしてアメリカ文学に対して、そうした過小評価がなされるのだと思いますか』と、レイがそのイタリア人に訊いた。答えは返ってこなかった。その男は作家だった。レイが作家になりたいひとはどのくらいいますかと訊くと、手を揚げたのはたったのふたりだけだった。アメリカだったら半数以上のひとが手を揚げるだろうから、ずいぶん違うものだ」
大学や書店に招待されてこうした朗読会や懇親会に出席したほかは、ヨーロッパ旅行を楽しんだ。バリのムーラン・ルージュでは、テスとふたりして踊ったり、スイスのヴィスバーデンにあるドストエフスキーが一財産をすったといわれる伝説的な賭博場でルーレットをしたり、チューリッヒの友人を訪ね、そこの湖でボートに乗ったり、かつてバウンドやジョイスやレーニンやダダイズムの創始者トリスタン・ツァラなどが集ったというカフェ・オデオンを覗いてみたりした。またトマス・マン記念館を訪れて、そこに保存されている作家の自筆の原稿に目を通したりもした。ローマでは、ヘミングウェイとじっさいに親交があり、『誰がために鐘は鳴る』を初めとする小説のイタリア語訳を行ない、カーヴァーの一短篇集の後書きを書いたという老婦人にあったり、キーツやシェリーが埋葬されている「外人墓地」を訪れたりする。ローマやミラノではインタビューや写真撮影に追いまくられたらしい。
このように、突然降って湧いたような高い評価や名声を得て、カーヴァーはどのように感じたことだろう。いわは苦節二十年の思いを一気に晴らす好機だと思っただろうか。自らが味わったアルコール中毒や一家離散のうきめの、当然の代償と感じたことだろうか。いや、そうした情念はカーヴァーになかったように思える。むしろ、かれ自身がそうした「社会的な成功」にいちばん戸惑いを感じていたのではないだろうか。それと共に、名士に祭り上げられた晩年のカーヴァーからは信じられないだろうが、そうした成功によって何よりも初めて自分の仕事に自信がもてるようになったというのだ。
若手作家のモナ・シンプソンが八三年に行なったインタビューで、「名声はあなたをどのように変えましたか」と訊いたのに対して、カーヴァーはこう答える。
「名声とかいわれると、あまり気分がよくない。そもそも初めから大した期待など抱かずに創作を始めたんですから。短篇を書いて、どれだけこの世で出世できるというんでしょう。それに、ああしたアルコールにまつわる一軒があったあとじゃ、自分自身を高く買いかぶることもできなかった。ですから、驚きの連続なんです、こうして注目を浴びるのは。と同時に、こうともいえるかもしれない。『愛について語るとき……』か好評を博したことで、それまで味わったことがなかったような自信が芽生えたのです。それから続いて起こった喜ばしい出来事が、すべてひとつに合わさって、もっと多くの、もっと良い作品を書きたいという気持ちにさせてくれるのです。いい励みになりましたよ。……いま以前にもまして僕は力強く感じていて、自分のとるべき道にゆるぎない自信がもてるのです。ですから、あなたのいう『名声』は、いや僕に対する新たな注目といっておきましょう、それは素晴らしい出来事だったのです。僕の自信をしっかり支えてくれたんです。自信が支えを必要としているときに」


実に良い寄稿文ですね。

つづきます。



   

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