デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その51

 
インタビュー記事の続きです。

♦デビューのころ……♦

――あなたにとって大きな節目は、長年にわたる友人でありかつ編集者でもあるゴードン・リッシュとの出会いでしたね。どのようないきさつだったのですか。

カーヴァー ぼくたちの関係は一九六〇年代の中ごろに始まった。ゴードンはパロアルトの、ぼくが働いていた教科書会社の向かいにある教科書会社に勤めていた。それで知り合いになったんだ。それから彼はそこを辞めて、『エスクァイア』誌の小説部門の編集者になった。彼が便りをくれたとき、彼は他人の便箋を使っていた。『エスクァイア』誌の便箋だったが、前任者の名前に線を引いて消して使ってたんだ。手紙には「上記の名前の善良な紳士の後を継いで、小説部門の編集者になった。書いたものがあったら何でも送ってくれ」とあった。そのころぼくはまだ出版社にいたんだが、家にあった短編小説を全部送った。四、五編あった。それがなんと全部送り返されてきた。それも折り返してだよ(笑)。「もう一度別のを送ってくれ。これはうちには向かない」という言葉が添えてあった。ぼくは途方にくれてしまった。親友が『エスクァイア』誌の小説部門の編集者になったというのに、作品を採ってもらえないんなら、ぼくにはもうチャンスはないんじゃないかってね。まったく心底参ってしまったよ(笑)。だけど、ぼくは気を取り直してどんどん短編小説を書いた。そして、彼はやっとのことで採用してくれた。「隣人たち」という短編小説だ。それがぼくの人生の転換期だった。彼はさらにもう一つ、もう一つと採用してくれた。その後彼は『エスクァイア』誌を辞めて、クノップ社の編集者になった。ここで短編小説集の契約をしてくれた。そんなわけで、もう長い付き合いなんだ。
ゴードンはいつもぼくの作品の熱心な支持者だった。どんなときでもぼくの作品を擁護してくれた。ぼくが書いていなかったときでも、ぼくがカリフォルニアにいて飲んでばかりいたときでも、ゴードンはぼくの作品をラジオや作家会議などで朗読してくれた。ゴードン以上に熱心で、しかも必要なときにいてくれた支持者は、ほかにはいなかったと思う。励ましてくれたという意味では、ゴードンはガードナーに似ていた。それにゴードンは五十語費やさなくとも二十語で何かが言えるのなら、二十語で言えとも言っていた。その点でもガードナーに似ていた。彼が与えてくれるものをちょうどぼくが必要としていたときがあった。そのとき彼の存在はぼくにとってとても大事だった。彼は今でも若い作家たちを擁護しているよ。


――出版業界では作家と編集者との関係がより緊密になっているようですね。気が付いていましたか。

カーヴァー 気が付いていたよ。実はこのあいだの晩、テスとそのことを話したばかりなんだ。ロバート・ゴートリーブの噂をして、彼がクノップ社から『ニューヨーカー』の編集部に移ったことを話し合ったんだ。話しているうちに、編集者が名士になるのは文学史上初めてのことなんじゃないかということに気が付いた。ときには編集者が関係している作家たちよりも有名な名士、大物になることもある。ゴットリーブが『ニューヨーカー』誌に行ったということは、「ニューヨーク・タイムズ」紙の一面記事になったし全国の新聞、雑誌でも取り上げられた。それに優れた編集者、ゲイリー・フィスケットジョン。彼のことは『エスクァイア』誌の記事になったし、他の雑誌でも紹介されている。自分の編集者が出版社を変わると一緒に出版社を変える作家をおおぜい知っている。作家は編集者と親密な関係を築いているから、編集者が行くところにはどこへでも行くんだ。初めて名前を聞いた編集者はマクスウェル・パーキンズだった。彼はトマス・ウルフやヘミングウェイなどの作家とそういう関係を持っていた。今日では編集者が作家の人生の中で演じる役割が大きくなっている。これが良いことか悪いことかはわからない。どんな結論が出せるかわからないが、編集者が編集者というだけで社会の名士になっているのは事実だ。これはまったく目をみはるものがある。

おそらく日本においても同じ状況なんじゃないかと思います。かねてから言ってきたように、そういう「編集者」と出逢いたいものですね。

――あなたが作家として生き残ったことは、多くの模索中の作家に勇気を与えました。あなたはいくつかのそびえ立つ障害を乗り越えて仕事を続けることができましたし、さらに自身の経験を普遍的な短編小説に変えることができました。今このことをどう受け止めていますか。

カーヴァー ぼくは自分が道具にすぎないような気がしている。……問題は生き残れるかどうかだった。もしほかのことができたなら……仮りにの話だけど、たぶんほかのことをしていたかもしれない。だけどぼくは書くよりほかはなかった。知ってのとおり、焔は消えた。ぼくが飲んだくれていた時期の終わりのころ、きっと焔はすっかり消えてしまってたんだ。だけどぼくは生き残った。しらふになって全く飲むのを止めても、一年かそこら何も書かなかった時期があった。書くことが大事だと思いもしなかった。当時は健康を取り戻すこと、脳死のような状態から立ち直ることがまず大事だったから、書くか書かないかはもう問題ではなかった。ぼくは人生をもう一度やり直すチャンスが与えられたような気がしていたんだ。一年余り何も書かなかった。それから、何もかも良くなり健康が回復すると、ぼくはエルバソで一年間教えた。すると突然、ぼくはまた書き始めたんだ。それはただ賜物だったとしか言いようがない。そして、あれからこっち起こったことは全部大きな賜物だったんだ。毎日がボーナスなんだ。今では一日一日が至福に満ちてるんだ。

カーヴァーのインタビュー記事はこれで終わりです(ただし「後記」として一文が記されていますので、それを紹介して終わります)。

後記
レイモンド・カーヴァーは一九八八年八月二日に没した。
このインタビューをしたのは、カーヴァーが肺癌にかかったことを告知される少し前のことだった。会話の調子からもわかるとおり、カーヴァーは陽気で希望に満ち、これから先もっと良い作品が書けると信じていた。墓碑に彫る言葉のことを冗談に語ってはいたが、彼自身にも彼の言葉にも最期を迎えるという感じはなかった。
その感じは最後までなかったものと思われる。病状が悪化し、左の肺の大部分を切除してからも、カーヴァーは楽観的だった。わたしと彼とが最後に話したのは『ぼくが電話をかけている場所』の出版からまもないころだったが、カーヴァーは消耗させられる放射線治療にも体が衰えてゆくことにも、少しも泣き言を言わなかった。彼は再び詩を書くことや新しい本を書くことを考えていた。
没する数ケ月前に、カーヴァーはテス・ギャラガーと結婚した。また米国アカデミー芸術文芸協会の会員として認められた。そとて新しい詩集『滝への新しい径』を仕上げた。テス・ギャラガーが『ニューヨーク・タイムズ』紙に語ったところによれば、彼は息を引き取るほんの数時間前に、アントン・チェーホフの短編小説をどんなに愛読したか話してきかせた。
レイモンド・カーヴァーは人間としてのあり方、芸術のあり方について信条を持った人だった。そのことはこのインタビューによく表れている。そして、カーヴァーという人のことをよく考えて選んだこの本のタイトルにこめられてもいる。わたしは最初に発表したインタヴューを書き変えて、あれから彼の身に起こったこととつじつまを合わせたりせずに、ただほんの少し付け加えただけで、元の形をそのまま残しておくことにした。
レイが気に入ってくれたこの形のままで。


今シリーズはまだつづきます。



   

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