デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その48

 
インタビュー記事の続きです。

♠始まりの一行から何もかもが放射される♠

――一九八六年版の『アメリカ短編小説傑作集』の序文で、あなたはテクニックのことを論じていますが、あの中で短編小説の必須条件を五つ挙げていますね。選択、葛藤、ドラマ性、結果、語りですね。こういうものは、書き始める前にあなたの頭の中に並んでいるのですか。

――カーヴァー いや。書き始めると小説が自然に進むんだ。詩の場合も小説の場合も、書き始めたときはたいてい、どこに向かっているのかわからない。着いてみて初めてわかるんだ。書いているあいだはわからない。フラナリー・オコナーの「短編小説を書くこと」というエッセイがあるが、そこで彼女は短編小説を書くとき、初めはどこに行くのかわからない、最後まで行ってみてやっとわかると書いている。ヘミングウェイの「マエストロ相手の独白」という短いエッセイも読んだけど、あの中で彼は誰かに小説がどうなるかわかるかと尋ねられると、絶対にわからない、ただ書いていると状況がひとりでに発展し展開してゆくのだと答えている。ぼくは短編小説を書くとき全く計画を立てない。小説の中にドラマが入りこんできて、結末と選択が姿を表す。あのエッセイの中でぼくはこういった要素を分けようとした。だが、これはみんな結合してるんだ。本当の意味では分けることはできないんだ。

こういうことに関しては以前に何度も語ったことがあるけど(その1その2)、カーヴァーはとても大事なことを話していますよね。

――確かにあなたの作品には、さっきおっしゃった始まりの一行がありますね。

カーヴァー そう、その始まりの一行が書けると、後は何もかもがその一行から放射されてくるみたいなんだ。

――あなたの短編小説を読んでいると、何かとても大事なことが、ストーリーが始まる直前に起こってしまっているという、さもなければ、ストーリーが終わった後で起こるのだという印象をしょっちゅう受けます。あなたの短編小説はヘミングウェイのに似て、扱うのは本当に氷山の一角なんですね。このやり方がうまくいったときは本当に見事です。でも、多くの駆け出しの作家にはこれがいろいろと難しいのです。彼らは作品の中で触れてなくても読者は事情を承知しているものと思ってしまうのです。

これもまた良く理解できる話です。書いているとつい「都合の良い読者」を自分の中で想定しちゃうんですよね(当然、その読者はまた「自身」でもあります)。もちろん、そういうのは甘えに他なりません。自戒したいものです。

――あなたにとって「きめ手となる一行」とは何ですか。学生にはこのことをどう教えますか。

カーヴァー そうだね。大事な情報は読者に知らせないわけにはゆかない。登場人物の顔は読者が自分で考えるものと思うのは構わない。人物の目の色なんかは書きこまなくても大丈夫だ。短編小説に関する限り、読者の側にすでにある程度の予備知識があるものと思わなくてはいけない。つまり、読者がある程度の空白は埋めてくれると。だが、充分な情報を与えずに人物像はあやふやにしておいて、後は読者にお任せというのは良くない。何が起こっているのかを曖昧にしておくのも良くない。この意味でわたしは六〇年代のポストモダニズムの作家の何人かには疑問を持った。小説を読んでも、ときには何が問題なんだか全くわからないことがあった。何か問題になることやうまくゆかないことがあるらしいとはわかるんだけど、ストーリーの中の人物がみんな機嫌が悪いからね。ところが、小説は形も形式も、どこから見ても現実から遊離している。ぼくはぼくたちの生き方、ぼくたちがどんなふうに行動するか、ぼくたちがどんなやり方で自分の行動の結果を解決するかといったことをいくらかでも扱ってくれる短編小説や詩に関心がある。ぼくの短編小説の大部分は、劇的な葛藤がほとんど終わりに近づいたところから始まっている。ぼくは以前のいきさつを細かく説明したりしない。ぼくはただある動きの終わりに近いところから始めるんだ。

――あなたの短編小説は危機一発の分かれ目から始まるのですね。

カーヴァー そうだね。そこに行くまで待ち切れないんだね、きっと。だが、たしかにぼくの短編小説には鋭く切れる一行、あなたの言い方を借りれば、「きめ手となる一行」がある。この一行で読者に必要なことを全部伝えなければならない。だけど、あまり多くのことを読者に語り過ぎてもいけない。読者を退屈させたり、自分で退屈したりしたくないんだ。

――カート・ヴォネガットは、短編小説の作家はまず書いてみて、書き上がったら、最初の数ページを捨ててしまうと良いと語っていますね。

カーヴァー 意味深長な言葉だ。D・H・ロレンスは短編小説ができ上がったら、初めに戻って木の枝を揺すぶり、もう一度枝を切り詰めろという意味のことを言っている。

――書き直しのことですが、あなたの初期の短編小説の中には、最初に小雑誌に発表されてから最終的に作品集に収められるあいだに、全体的に書き直してしまったのがありますね。ときには結末が、ときには表題まで変更したのがあります。『焔』の後書きであなたは書き直しの説明として、「ぼくが書き直すのはきっと、書き直すに従って次第に書こうとしていることの核心に入ってゆくことができるからでしょう。ぼくは常にその核心を見つけようとしている。それは固定された地点ではなく、過程なのです」と書いています。このことをもう少し説明してくれますか。

カーヴァー 何もかも書き直していた時期があった。しかもかなり大幅に書き直していたんだ。よくわからないけど、きっとすぐ先に何があるのかわかになかったからだろう。もし何かがあったとしてのことだけどね。だから、手がけている作品をいじくり回すのが面白かったんだろうな。そのころは、自分の作品がどうも坐りが悪いような気がしたんだ。それで坐りの良い場所に落ち着かせたかったんだ。たとえそれがどこだとしても。きっと、だんだん自分の書くものに安心できるように、満足し自信を持てるようになったんだと思う。とにかく何かが起こったんだ。

このあたりの経緯はカーヴァーとゴードン・リッシュの一件が明らかになっている今から考えると良く分かるのですが、このインタビュー当時だと公にされていなかったんでしょうね。カーヴァーの口籠りがちな発言でそれが分かります。

今では作品ができてしまうと、たいていの場合は書いたものから興味を失うようになった。ある意味では、作品がいったん出版されてしまうと、自分の物でなくなるような気がする。大袈裟に言うつもりはないけど、きっと今はしなければならないことが多過ぎて、充分な時間がないという気分なので、書き直しに熱心じゃないのかもしれない。今は書きながら、書き直しをやってしまう。昔のように、出版してから書き直しをしたりはしない。

――作家として成熟した結果でしょうね。

カーヴァー そうかもしれない。あのころは今ほど自信がなかった。じぶんのやっていることがよくわかっていなかった。満足できなかったんだ。理由は何であれ、今では前より確信もあるし、自分の進む道がはっきり見えている。今うまくいっていることで、六年前、いや十年前はうまくゆかなかったことが沢山あったよ。作家としての成長、あるいはあなたが今言ったように成熟したせいかどうかはわからないが、良かったと思っている。


――何をねらって書き直しをするのですか。

カーヴァー 作品をあらゆるレベルで面白くしたいんだ。そのためには信憑性のある人物を状況を作らなければならないし、同時に完全に明瞭で、しかも複雑な考えや洗練されたニュアンスを伝えることができる言葉になるまで、工夫しなければならない。

――一人称で語られるいくつかの作品で、女性の視点から書いているのがありますね。あれを書いているとき、女性の視点を使うと作品のインパクトが強まるというか、ぴたりと決まるという感じでしたか。あんなふうに作品を書くのは難しかったですか。

カーヴァー 初めて女性の視点を使って書いたとき、とても不安だった。ぼくにとっては本当に一つの挑戦だった。うまくいったときはまるで感情が爆発したようだった。興奮してしまったよ。ぼくは男女どちらの視点て書くときも、説得力のある書きかたをしたいと思っている。今では作品のアイデアが浮かぶときには、それと一緒に誰の視点で書くかも浮かんでくる。そしてこの視点はほとんど変更できない。だがここでも素材の性質やぼくのアプローチの仕方に従って、どの視点を使うかという選択が行われているのだと思う。ぼくはただうまく書けるように自分の体勢を整えて書くだけだ。こういうやり方が気に入っているんだ。

――作品にとって視点は大変重要です。誰だったかは、書き上がってから一人称を三人称に変えたという話を聞いたことがあります。

カーヴァー ぼくの友人のリチャード・フォードは長編小説の視点を変えている。彼は二年がかりで書いたのに、まずいと感じたんだ。それでさらに一年かけてすっかり視点を変えてしまった。献身とは、仕事への誠実さとはこういうものだよ。これだという仕事をしたい。だが、そのチャンスはそうあるものじゃない。一人の人間が本を何冊墓まで持ってゆけるか知らないけど、これだという本を書きたいものだ。さもなければ、書く意味がないじゃないか。

中身の濃いインタビューだなあ~! とても勉強になります。

つづきます。



   

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