デニム中毒者のたわごと

novel

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その45

 
インタビュー記事の続きです。

♠詩は自分の弱みを見せる機会を与えてくれるね♠

――詩が沢山書ける時期には、自分の心がカメラのような働き方をしていると感じませんか。物をスナップ写真のような目で見ているという感じ、即座に何もかも把握し、目の前にある物の重要性が見えてしまうという感じがしませんか。

カーヴァー そう思うよ。ぼくの詩の中には視覚的なイメージで始まったものが多いんだ。ちょうどあなたが今言ったように、スナップ写真みたいなイメージでね。多くの作家はこういう瞬間を逃さないような機敏さを養っているものだ。でも、必ずしもいつも機敏ではない作家もいる。ぼくもその一人なんだ。それでもやはり、本当にこういう瞬間が訪れると、それと同時に、あるいはそれからあまりたたないうちに、イメージにぴたりとくっつく数語の言葉や詩の一行が生まれて、この映像を心に呼び返してくれる。この一行がよく詩の第一行になるんだ。ぼくが書くものには、変更できないものは何一つない。短編や詩の中の言葉を文字通りすっかり書き換えてしまうこともある。だけどたいていこの最初の第一行、ぼくが詩や短編を書き始めるそもそもの発端になったこの一行は最後まで変わらない。ほかの部分はどうにでもなる。だけど、この最初の一行は最後まで手つかずのままで残る。写真のたとえは良いね。ちらと見ただけでそのまま頭に固定してしまう光景があるからね。

たしかに。そういう「他に換えようのないセンテンス」ってのは間違いなくありますよね。

――頭にその最初の一行が浮かんだとき、それが詩になるか短編小説になるかすぐにわかりますか。、

カーヴァー 詩にするか短編にするか意識的に決めはしない。詩を書いているときは、例外なく、どうしても詩になってしまう。短編を書いているときだと、短編の一部になってしまう。詩と小説を同時に書く作家もいる。だけど、ぼくはそういう仕事のしかたはできないみたいなんだ。短編小説を書いているあいだは小説を書く期間だし、詩を書いているあいだは、ぼくが触るものは何でも詩になってしまうみたいなんだ。だから、その最初の一行が浮かんだのが詩の期間なら、それは詩になるというわけだ。

ふう~ん、そういうものなんですかねー。

――詩の行で、ほとんどそっくりそのまま小説にも使われているのがありますね。

そうそう、そういう実例があるんだよねー(それって自己矛盾じゃない?)。

カーヴァー そうなんだ。少なくとも三つか四つの詩と小説のあいだでそういう相互乗り入れをやってるんだ。『焔』の中に「悲惨な売出し」という詩がある。この中で家財道具を全部舗道に引っ張り出してしまう人と、それを見ている人が出てくる。それは「ダンスしないか」という短編にも出てくる。同じ例はほかに二、三ある。「母親」という詩の数行は、「引っ越し」という短編にも出てくる。どの場合もまず先に詩の中で使っているんだ。その後、ぼくはそれがぼくの感情生活にあまりに強く呼びかけてると感じたにちがいない。それでその問題がまだすっかりけりがついていないと感じて、それを再度取り上げ、もっと大きく充分な形で扱ったんだろうね。

――「母親」という詩はあれ自体大変よい詩ですが、母親がクリスマス・イヴに電話をしてきて、雪がやまなかったら自殺してしまう、この次その家を見るときは棺に入っていたいという部分は、「引っ越し」の一部になると面白くなりますね。小説の中でそれまでに積みげてきた緊張感が一気に高まるような気がします。意識的なものかわかりませんが、「母親」の中では語り手が精神科医に診てもらおうかと考えるのに対して、「引っ越し」のほうでは、語り手は母親を精神科医に診せようかと考えていますね。

カーヴァー そうだ。違ったひねりをつけているんだ。ぼくの詩と小説はほとんど、現実生活を出発点にしている。だが、ぼくは自伝を書いているわけじゃない。いっさいが変更される。詩や短編小説の中では何もかもが。作品に一番ふさわしいもの、それがぼくが進むべき方向だ。短編小説と詩が芽生えるときには、現実に一致する行があるかもしれない。だが、今言ったように、ぼくは絶対に自伝を書いているんじゃないんだ。

――ですがやはり、あなたは詩を書いているときのほうが、より真に迫っているし、より自伝的なようですが。

カーヴァー そうだね。詩は本心から率直に語る機会を、あるいは自分の弱みを見せる機会を与えてくれる。小説を書いているときにはそんなふうにはめったにならない。詩の中ではぼくは中心、核により近づいているような気がする。

それだけカーヴァーにとって「詩」は特別なものだったんだね。

――詩を書くときは、いつも内容が取るべき形式を指示してくれるのですか。どんなふうに書いたら良いのかは機械的にわかるのですか。

カーヴァー 詩を魅力あるものにしようとして、かなり懸命に努力することもあるよ。目に「適切」に映るように、また耳にも適切に響くようにしたいと思ってね。できあがってからしばらく後も、その頁の体裁をどうするか工夫をこらしていることもある。だが頁にしたときどう見えたら良いのか、内容がひとりで決めてくれることもある。

なるほど、なるほど。頷ける話が続きますね。

インタビューは、まだまだつづきます。楽しみです。



   

~ Comment ~

スナップ写真 

詩はスナップ写真を撮るよう、というのはわたしにもわかるような気がします。今ここを残したい、とシャッターを切るのと、感じたことの一部として言葉をぎゅっとまとめ一枚の風景のようにしたいっていう感覚。
(とはいえ、映像的な詩は書けそうにないけど)
物事も人間も、その全体を正確に語りきれるほど単純でもないし(または言葉を使う人間が万能でないから)、言葉にするとどうしても矛盾って出てきちゃいますね。「世の中には矛盾はないです」という矛盾、というやつですね。だからこそ方向性として「適切」になれるように頑張るんだろなー。

映像的文章(具象的? それとも……) 

まおまおさん、こんにちは^^

>詩はスナップ写真を撮るよう、というのはわたしにもわかるような気がします。今ここを残したい、とシャッターを切るのと、感じたことの一部として言葉をぎゅっとまとめ一枚の風景のようにしたいっていう感覚。

はい。

>(とはいえ、映像的な詩は書けそうにないけど)

(やはり文章と映像とは切り離して考えた方がいいんじゃないかと、個人的には考えています)

(そういう「文章ならではの表現」=「文章の優位性」については、この場でも語ったことがあります)
          ↓
http://tsfc501.blog66.fc2.com/blog-entry-384.html

>物事も人間も、その全体を正確に語りきれるほど単純でもないし(または言葉を使う人間が万能でないから)、言葉にするとどうしても矛盾って出てきちゃいますね。「世の中には矛盾はないです」という矛盾、というやつですね。だからこそ方向性として「適切」になれるように頑張るんだろなー。

同感です。
そういう矛盾も含めて、文章でしかやれないことを考えていきたいですね。
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