デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その42

 
岩元厳さんの寄稿の続きです。

晩年のカーヴァーの短編小説――ペネロピー・モフェットの記事では、カーヴァーは最後の一年はもっぱら詩を書いていたらしい。そして、また小説を書きたくなってきた、ともらしているが、ここでは最後の短編集に収められた「箱」から始まり「使い」で終る七編と考えておこう――それを読んでみると、「使い」をのぞいてはすべて一人称小説で、主人公は一貫して「ぼく」になっているのに気づくはずだ。彼の全作品は必ずしも一人称で書かれてはいない。むしろ三人で書かれた物語が多いので、一人称で語られている小説だけを集めて、カーヴァーの少年期から晩年までのいわゆる「ぼく」の小説集を作ることだって考えられうる。しかし、晩年の作品にかぎってすべて「ぼく」という一人称主人公になっているのは少し気になる。
彼にとって「ぼく」という分身を作り、その体験から身近な出来事を語りだすほうが書きやすかったためだろうか。あるいは、晩年に書かれた詩を見ると、彼自身の生涯を回想して作られたものが多いし、またモフェットに語っているようにアトランティック・マンスリー社との約束の本は「回想録」になるかもしれないと述べていたりすることからも、カーヴァーは急速に「自己」の生きた軌跡を書きたいという意欲にかられていたのかもしれない。その一つの現われが「ぼく」の一連の物語になったと考えることもできる。
もちろん、カーヴァーの「ぼく」はナイーヴに彼自身ではない。オルガの前で身をかがめ、気づかれないようにコルク栓を拾った若者が代表するようなとるにたらぬ小さな「ぼくら」、ふつうの人だと言ったほうがよい。成功してもてはやされたとき、ほんとに驚いた、と言うカーヴァー、眼に「きらめく星」がないと自認していたカーヴァーはいわばぼくらの代表である「ぼく」を創り、「ぼく」にぼくらの生活――ボビー・アン・メイソンが言ったように、それにまつわる夢や苦悩を含めて――を語らせるのがうまかった。
「箱」の主人公の「ぼく」も「象」の主人公の「ぼく」も〈偉大さ(グレイトネス)〉を望みようもないポストモダンの世界で、政治も世界観も関係ないようにわずかに可能なかぎりの幸せを求めようとして、それすら果たせないでいる何とも〈小さな(ベティ)〉ぼくらではないか。
「箱」の「ぼく」は年老いて、少しおかしくなりかけた母親を抱えている。いや抱えていると言っても、養っているわけではないが、心の負担として抱えている。ただ新しく同棲し始めた愛人がいるから、気になっていても、それをどうすることもできない。「ぼく」を頼って同じ町に引っ越してきた母親は、期待していたほどは二人に歓迎されないので、また昔住んでいたカリフォルニアに越していってしまう。
「ぼく」は母親のことを気にかけているのだが、自分が今つかもうとしているささやかな幸福――それも決して安定しているわけではないが――にしっかりとすがりつきたいから、母親をふたたびカリフォルニアに帰らせてしまう。母親の状況も不安定だ。経済的に食べるのに困るわけではないらしいが、夫に先立たれて、たえず不満であり、淋しすぎる。だから、彼女は引っ越しばかりする。彼女の家の中には越してきたまま開けられてもいないダンボールの箱があちこちに積んであり、それがこの物語にいかにもカーヴァーらしい異様な雰囲気をかもしだす。
「ぼく」の愛人ジルが母親のことをもしかしたら〈くっつきや(クリンガー)〉じゃないかと、皮肉っている。〈くっつきや〉は息子や娘にしがみついて放そうとしない人のことで、個人生活を大事にするアメリカではもっとも嫌われるタイプだろうが、しかし、この言葉のイメージ――ぼくはシンドバッドに背負ってもらって川を渡りながら、どうしてもその背からおりようとしなかった爺さんを思いだす――は異常にグロテスクだが、考えてみれば、すべての人間は必死に何かに〈しがみつこう(クリング)〉としているのではないか。「ぼく」は今はジルに、ジルもまた「ぼく」との生活にしがみつこうとしているから、「ぼく」にしがみつこうとしている母親を拒むわけではないだろうか。
「ぼく」もジルよりも大きく包容力をもつだけの人間にはなれない。なぜなれないのか。経済的とか精神的とか理由はつければいろいろあろうが、しかし、なぜでもなれないのが現実のアメリカ生活(いやすでに日本の生活でもある)である。これも一種の異常さである。男女の連帯を人間は激しく求め、それにすがりつき、それを自分たちの生活であり、生命であると考えれば考えるほど親と子の連帯を強引なほどに断ち切っていかなければならない。母親が無事着いたという電話を受けながら、「ぼく」は小さな苦境の中にのめりこみ、空ろな気持ちだが、老いた親をもてば、それはまさしくぼくらが共にわかちあう感情であろう。
カーヴァーの巧みさは――いや才能と言うべきだろう――このように日常的な出来事を異常なほどの驚きへ変えることができることだろう。「箱」の物語でも、部屋の中のあちこちに半年間も開かれないままにおかれていたダンボール箱の存在がなかったり、あるいはまたジルが「ぼく」に鋭い刃のように突きつける〈くっつきや〉という言葉がなかったりしたら、この物語がぼくらにぼくら自身が日頃抱え、共に生活しているものの真髄をこれほどきわだたせて見せてくれることはなかっただろう。モリスではないが、文字通り「注文に応じて狂気」の眼をもつことによって、カーヴァーは日常の中の異常を見ている。
それは、「象」とか「メヌード」とか、彼のすべての短編にも言えることだろう。「象」の「ぼく」など、弟に娘に、母親に、別れた妻に、そしてしまいには息子にまで寄ってたかって金をせびり取られている。「ぼく」はそれを決して喜んでいるわけではないが、しかしそれに敢て抵抗もしない。ソール・ベローだったら、なぜこのぼくに、あるいはぼくだけが、と抵抗し、「犠牲者」の意識を消すようにつとめる主人公を書くだろうが、カーヴァーは無防備、受動の「ぼく」を書き、しかも最後の結末は夏の気持ちの良い日に、「ぼく」は多少なげやりながらも、ハッピーこの上なしという気分で仕事場まで歩いていく。「ぼく」にせびって、「ぼく」をほとんど丸裸同然にした人々のことを思い、かれらに祝福さえしながら、大きく手を振ってハイウェイを歩いていく。
ぼくらにとって経済的、精神的両面から小さな苦しみが時折りおそってくれば、大変事であるが、それがもしこの主人公に振りかかるように常時、しかもこれでもか、これでもかとおそってくれば、もうぼくらには為すすべもないわけだ。現実にはそういうことは万に一つもないから、ぼくらはみな多少は不満気だが、まず平凡な生活をよしとしながら暮している。しかし、もしも「ぼく」のようになったら、いかに軽かろうとも存在を放棄するか、さもなければ「ぼく」のように開き直って、借金してまでの援助を自分に関わりのある人々に施して、幸せを気どるほかない。
レイモンド・カーヴァーという人は小憎らしいほどにぼくらの気持を知っている。しかも、ぼくらがぼくら自身について見たくないこと、見ることを拒んでいること、そういうものを平気な顔をして書いてしまう。だからだろう、彼の小説はどれを読んでもどこかにぼくらの影がある。そしてその影の投げるグロテスクさにぼくらは一瞬ギクリとおびえてしまう。

「象」も「メヌード」も素晴らしい短篇です。そして息苦しくなるような物語でありながら、読後感は爽やかでもあります。要するに「フィジカルに効く作品」になっているわけです。そういう作品を自分も目指したいですね。

岩元厳さんの寄稿は今回で終わりですが、今シリーズはつづきます。



   

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