デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その41

 
岩元厳さんの寄稿の続きです。

カーヴァーは『ぼくが電話をかけているところ』のエピグラフにミラン・クンデラの『存在の耐えがたい軽さ』からの引用を使っているが、この題そのものがぼくらの時代における人間の状況をよく表現している。ぼくらの存在はたとかに軽くなった。それは、巨大な組織や機構に対してだけでなく、メディアや情報、日常の生活を動かす機械類や金銭との対比においてもいかにも軽い。はかし、「存在の軽さ」を抽象的に論ずるぼくらが本当の意味での軽さを見きわめているかというとそれは疑わしい。たとえば、軽きが故にぼくらが宿命的に抱えもっている〈小ささ〉を異常なものとして見る眼をもつかと言えば、それはノーとしか答えようがない。つまり、自らの〈小ささ〉をより鋭く、より深く見ることができるように、モリスの言う「作られた狂気」の一時を凡庸なぼくらはもつことができない。
だが、カーヴァーにはそれが可能だったことが、彼の最後の短編となった「使い」の結末の数行を読む者にはわかる。これはチェーホフの死を描いたもので、彼が敬愛したこの作家の伝記やチェーホフの周辺にいた人々の回想録などをもとに、カーヴァーが小説的に潤色した物語である。だが、カーヴァー自身の死後読むぼくらには、この作品がどうしても自分の死の予感をチェーホフの死の状況と二重うつしにして書かれたもののように思えてならない。先ほど引用したように、チェーホフの言葉に託した彼の創作の心も語られているし、またチェーホフの最期を看とった美しい女優の妻、オルガとの心の交流もカーヴァーが死に先だって正式に結婚した長年の愛人であった詩人のテス・ギャラガーに求めていた心情であったろう、などと考えて読むことができる。だからであろうが、カーヴァーの小説としては珍しいくらいに感傷もある。しかし、題となっている「使い(エランド)」という言葉が暗示するように、これはまたチェーホフの死についての物語であると同時に、オルガから死者の顔を整えてくれる葬儀屋を呼びにいってくれと頼まれるホテルのボーイの物語でもある。
このボーイは前夜の深更に突然にチェーホフの医師からシャンパンをもってくるように命じられた若者であった。彼はチェーホフが何者かさえ知らないが、とにかく重い病気の人がいて、その人を交えて、医師と付添っている美しい貴婦人とが真夜中にシャンパンを汲みかわすのに、そしてまた与えられたチップの多額さに驚いただけだった。同じ彼は、朝になって、制服もきちんと整え、髪もきれいにし、ハンサムな若者らしくなってチェーホフの部屋に前夜のシャンパンの瓶とグラスを取りにきた。ところが美しい貴婦人はまるで何か秘め事でも頼むように、世間に報せる前にどうぞ夫のために葬儀屋をつれてきて欲しいと切々と頼むのである。このくだり、原文の最後の二ページにまたがって述べられるオルガの言葉は描出話法で書かれていて、そして依頼をおえる部分で「限りなく」直接話法に近づき、時制も過去形から現在形へと移行する。夫を思う心情、愛する人の死に接した感動と感傷、それをカーヴァーはオルガが若者に対して物語りのように細々と述べる説明によって、そしてその感情のたかまりを過去形から現在形へという時制の変化によって表現しているように思える。
しかし、若者はオルガのたかまりゆく感情とはまことにかけはなれて、昨夜、シャンパンの瓶からはねて飛んだに違いない足許の床にころがっているコルク栓にすっかり気を取られていた。ボーイの職に忠実であるに違いない彼は眼の前で訴えるように、感情をこめて自分に頼みごとをしている美しい婦人に気づかれずに、その栓を拾いあげることができるかのほうに関心があった。カーヴァーは物語をこう終える。

……それを拾いあげるためには、花瓶を手にしたまま、彼は身体をかがめなければならない。だが、やれるぞ。彼は身をかがめる。下のほうを見もせず彼は手をのばし、コルク栓を手の中に握りしめた。

オルガは医師の去った後、チェーホフの傍らに座り、冷たくなったその顔を優しく撫でながら、「そこにはただただ死の美しさ、穏やかさ、そして荘厳さだけがあった」と感じている。彼女のこの感慨と対比して読むとき、この若者のあまりにも忠実な日常がグロテスクなほどにきわだって見えないだろうか。しかし、カーヴァーがこれを物語の最後を締めくくる文章としたことは、彼にとってはチェーホフという天才の荘厳で「あるべき」死と哀れなほどに若者の身についた日常的習性、言いかえれば彼の〈小ささ〉の証明のような習性もまた同価と考えていたからだろう。若者はふつうの人間、ぼくらと同じ平凡な生活の中に生きる人間として、偉大な人の死に感動し、我を忘れるというのではなく、ただボーイとして、美しい婦人の部屋に一つの異物も残すまいという職務への忠実さから行動し、下を見むきもせず、見事にコルク栓を手中に収めるという成就を完成している。カーヴァーの文章もそこの部分、してやったりという感情を残している。
問題は、普通の作家が自分の敬愛してやまぬ偉大な作家の死を小説化するとき、これだけボーイの〈小ささ〉を見つめて書き、それを結末のハイライトにすることができるかとうかである。自分自身の死の予感を書きこもうとするとき、感傷をすべてうちこわすような行為――それは決して悪意から書かれるのではなく、天才の死と同じ重要な行為として――を想像する眼をもちうるのだろうか。これはやはり正常な眼ではない。「作られた狂気」の状態の中で、ぼくらのような凡庸な人間の行動をより深く、そしてより鋭く見抜く眼がなければ、不可能ではないだろうか。カーヴァーからすれば、おそらくチェーホフもまたこの若者の忠実な、そして実に些細な行為を見のがさなかっただろう、と考えているのだろう。

つづきます。



   

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