デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その40

 
今度は岩元厳さんの寄稿文を紹介しましょう。題して「ぼくらがカーヴァーとわかちあうもの」です。

こんな題を頭のどこか片隅において桜の散ってしまった四月の日々を過していたとき、メアリー・モリスに会うことになった。ミズ・モリスはアメリカの作家で、ちょっと女カーヴァーを思わせるようないい短編を書いてきたが、最近は長編(『待合室』一九八九年)も手がけ、自己発見を意図した旅行記(『中米ひとり旅』一九八八年)も発表している。対談というより、ある雑誌のための取材インタヴューだったが、なかなかの話し手の彼女、作家ならではの挿話を披露してくれた。



実は、ぼくは『ミシガン・クォータリー・レヴュー』が一九八七年秋と八八年冬に組んだ「現代アメリカ小説特集号」をもっていた。その八八年冬の号にメアリー・モリスの写真が載っているので、そこにサインでもしてもらおうとなんの気なしにれをもって彼女に会いにいった。その写真はニューヨークの町角に比較的小柄な彼女がカーディガンの前を両手で引き寄せるようにして、顔をひきつらせて立っている図だった。よほど寒い日だったのだろう、とこちらは考えて、まずあなたのこんな写真がありますよ、と見せた。
まあ、と彼女は驚く。一つには、こんな雑誌を遠い日本で見る驚きだったようだが、もう一つには、彼女にとってそれがとても重要な意味をもつ写真だから、と言う。写真の意味がわかるか、と訊ねるから、寒い町はてなとトンチンカンな応じ方をすると、ノー、ノーと彼女は言い、興奮したように説明をしだした。写真の中に立つ彼女の背後に押し開いて開閉する二枚戸から成るドアがあるが、その一方の上部に白地に黒の文字で“MAD to ORDER”と書いてある。「注文に応じて作ります」という意味だったものが、“MADE”の末尾にあったEの文字がいつの間にか誰かの悪戯で消されたのか、あろうことか「注文に応じて狂気になります」と読むことができるようになっている。この店はドアの専門店だそうだが、彼女は「注文に応じて狂気になります」という言葉が気にいり、これこそわたしの小説作法というわけで、わざわざ狂人のようなジェスチャーをして写真を撮ってもらったそうだ。
小説を書くことは、常に意識的に「作られた狂気(ファブリケイティッド・マッドネス)」の状態に自分をおくことだ、と彼女は主張する。というのは、作家はドアに記されている言葉のとおり、「注文に応じて」つまり、必要があれば様々な形の「狂気」の状態になることによって、自らの日常的現実から離れて物事をより鮮明に、そしてより深く見ることができるからだ、と彼女は言う。たしかに「創作」とはそのように意図的に研ぎすまされた瞬間がなければなされないものであろう。彼女はレイモンド・カーヴァーの小説が好きだと言う。そしてまた彼女自身の小説もカーヴァーのものと似ているが、それは扱われている題材やそれを描いていく文体が共にきわめて日常的なものであるにもかかわらず、異常なほどに不安定なムードをかもしだすことができるからだろう。カーヴァーは日常的なものを異常なものに移しかえる天才だったが、それはメアリー・モリス流に言えば「作られた狂気」の瞬間をたえず手にすることができた作家であったためかもしれない。
もちろん、人前ではカーヴァーはそんなことはおくびにもださない。手許に彼がこの世を去る三か月ほど前、ペネロピー・モフェットという女性が彼の最後の短編集となった『ぼくが電話をかけているところ』の出版を機にインタヴューをした記事「レイモンド・カーヴァー」(『パブリッシャーズ・ウィークリー』一九八八年五月二十七日号)がある。その中で彼は「短編小説を書くぐらいで、この世の中で成功できるなんて考えもしなかった。だって、ぼくには眼にきらめく(天才の)星もなかったし、とりたてて優れた知能とてなかった」と述べ、有名になって、ほんとに自分で驚き、名声にとまどっている。「これは別に謙遜して言ってるわけじゃないんだ。そりゃ、成功して今みたいなことになったのは嬉しいし、幸せだよ。しかし、ぼくはほんとにびっくりしたんだ」と、言う。
カーヴァーの最後の作品となった「使い(エランド)」――これは彼が敬愛したチェーホフへの賛辞(ホーメッジ)であり、死を予期した自らへの墓碑銘(エピター)だった――の中で、チェーホフの言葉を引用する。
「わたしの小説には政治的・宗教的・哲学的世界観というものがない。というのは、毎月そんなものはわたしは変えてしまうからだ。だからわたしはひたすらわたしの主人公たちがいに愛し、子供を産み、死んでいくか、そしてまたいかにかれらが話すかを描くことに専念する」この言葉はまたカーヴァーのものでもある。自分の眼の中に「きらめく星」を見ることのなかった彼はチェーホフの言葉のとおりひたすら自分を含めて、自分と同じアメリカの人々の日常生活を描くことに専念した。
ただ彼にとって幸運だったのは、ポストモダンと呼ばれるようになった現代のアメリカでは、何らかの特定な政治的見方も哲学的世界観もほとんどすべて無効になっていたことだ。『ポストモダンの条件』(一九七九年)を書いたリオタールの考え方を借用すれば、ぼくらの時代にはかつてすべての地方的物語(ローカル・ナラティヴ)を組織し、統合する役割を果たしてきた人間解放という大きな物語(メタナラティヴ)が消滅してしまっているのだ。




したがって、チェーホフがトルストイを常に意識せざるをえなかったようには、カーヴァーは誰にせよ、他のアメリカ作家を意識する必要がなかった。むしろ反対に、彼というモデルを得て、アメリカの文学界に小さな物語(マイクロ・ナラティヴ)の時代が生じた。ごくありふれた男や女たちの日常生活が急激にアメリカ小説の題材の中心となった。

これって、いわゆる「ミニマリズム」(その1その2)ですよね。

ボビー・アン・メイソンの言葉を借りよう。「わたしは今アメリカに生じている〈ふつうの人々(オーディナリー・ピープル)〉のことを書く新しい小説に関心がある。これまではこういう人々のことはあまり書かれたことがないのだが、それでもこの人たちの夢や苦悩もまた複雑であり、かつ豊かだ。わたしの耳にこの人たちの新しい声が至る所から聞えてくる――小さな町から、農場から、平原から、工場から……都市の巨大なアパートから、オフィスから、川船から。そしてそれがすべて〈わたしたち同じ人々〉なのだ」(『ミシガン・クォータリー・レヴュー』一九八八年冬号)
メイソンの言葉を耳にすれば、誰しもレイモンド・カーヴァーの小説を思いおこすだろう。そしてまた彼に追随してアメリカのあらゆる地域から新しい声をあげてきた数多くの作家たちのことを思いおこす。ぼくが会ったメアリー・モリスもその一人というわけだ。しかし、彼女が話してくれたように、小説の中に描かれたアメリカの日常生活はどのようにリアリスティックに見えても、それは作家の「作られた狂気』の視野を経ている。またそれを経ていなければ、読者の心をとらえることがない。誰しも気づくように、カーヴァーの小さな物語は一見どこにでもあるアメリカの生活の断片を語っているようでありながら、奇妙なほどに〈不気味な驚き〉をぼくらに与えてくれる。つまり、ごく日常的でありながら異常な感覚をかもしだす。なぜそのような感覚を生みだすことができるのか、あるいは生みだすことに執着したのか、カーヴァーは語ったことがない。むしろ小説作法については、実に素朴に〈仕掛(トリック)〉を好まず、イーサク・ディネーセンの言葉どおりに「希望ももたず、また絶望もせず、ただ少しずつ毎日書く」ことを信条としている。しかし、毎日書き続ける彼の眼には、彼の言葉を信ずるとして「きらめく星」はなかったとしても、それにかわる「作られた狂気(ファブリケイティッド・マッドネス)」があったのではなかろうか。その視野から彼はアメリカの現代生活――ぼくらの生活と共有するものがあまりにも多い生活――の中に潜む気味悪いほどの異様さを見つめることができたのではなかろうか。


鋭い論旨ですね。

つづきます。



   

~ Comment ~

MAD to ORDER 

わたしも気に入りました、この言葉!
ある説によると、創作者は(内外からの)注文に応じて作品世界で狂気に陥るんですな。
わたしは考え始めるとすぐとっ散らかってしまいますけども。

(先の「父の不在」を軸に書かれた記事、わたしの頭では、小説ってこんなふうに読む必要はないんじゃないのってことだけは思ってしまいましたが、そうかといってそうでもなかったりするのかな。登場人物の一言が読者にとって、いつの間にか作品の「空気」の要になっているってのはすごいですね)

小説は自由だ! 

まおまおさん、こんにちは^^

>MAD to ORDER 
わたしも気に入りました、この言葉!

いい言葉ですよね。

>ある説によると、創作者は(内外からの)注文に応じて作品世界で狂気に陥るんですな。
わたしは考え始めるとすぐとっ散らかってしまいますけども。

人それぞれ、向き不向きってのもあると思うんですが、「狂気」ってのも大事なファクターであることは確かだと思います(ただし、一定のコントロールは必要でしょうね)。

>(先の「父の不在」を軸に書かれた記事、わたしの頭では、小説ってこんなふうに読む必要はないんじゃないのってことだけは思ってしまいましたが、そうかといってそうでもなかったりするのかな。

どうでしょうね? 欧米においては特に一般的な読み方だとは思いますが……(対「神」の概念がありますからね)。

>登場人物の一言が読者にとって、いつの間にか作品の「空気」の要になっているってのはすごいですね)

ほんとですよね。開高健さんなんか、それを「一言半句」と言い、その一言半句を導き出すために小説を書くのだ(趣意)なんてことを仰っていましたっけ。
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