デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その39

 
千石さんの寄稿も今回で最後になります。

4.
私はカーヴァーの改作、書き直しの問題をいっているのである。カーヴァーの執筆態度には、ルースといわれるかもしれぬところがあった。改作して、前作をキャンセルしないのであるから。作品集によって、作品の細部が異なっていることがある。前の作品が筋を変え、タイトルを変えて別の作品になっていることがある。同じタイトルの作品集なのに版元によって収録作品が異なっていることがある。作品を統合するまえに早世してしまったからというだけではない。カーヴァーの作風がなせる避けがたい行為なのだ。
作品が、あることの整理や再現ではなく、そのたびごとの遂行だったからである。その点は、カーヴァー自身が愛好したカフカに似ている。書くことや語ることが、書くことや語ることの自己実現だったからである。
しかもそこにフランス式の審美主義や哲学趣味の流入を避け得たので、自己実現的な作風に伴いがちな華美な演技からも免れ得たのである。それが可能だったのは、カーヴァーが東部の人ではなかったからかもしれない。北西部太平洋沿岸地域に踏みとどまり、土地の気配にじっと耳を傾ける作家だったからかもしれない。
改作のよく知られた例は、「風呂」から「ささやかだけれど役に立つこと」へのそれだが、私はすでにそれについては本誌の別の号に書いたことがあるので、ここでは多く触れることはできない。
それをあえて要約すれば、カーヴァーの改作は、冷たく、ぬめりある暴力的な生命を日常生活の片隅に突出させることから、それを語りかけへと回収することであった。そしてそれを可能にし、それが可能としたのは、初期ヘミングウェイ流の簡潔な描写からものやわらかな物語的語りへの手法上の変更であった。
自選作品集『炎』に収録される短篇「距離」に、別の小さな実例を見ることができるだろう。
「距離」は、八一年の作品集『愛について語るとき……』に、「なにもかもが彼にくっついていた」という題で収録されていた短篇だ。「風呂」と「ささやかだけれど役に立つこと」ほどのドラマチックな改作ではないが、この改作にもカーヴァーの変化は見てとれる。
成人した娘が、父親に、自分は幼いころどんな女の子だったか話してくれとせがむ。ヨーロッパ旅行の旅先でのことだ。父親は新婚時代の苦闘を語りはじめた。娘が生まれた頃は、まだハイティーンの父親と母親だったのだ。若い父親は、遊びたい盛りだ。むずかる赤ん坊(娘)とそれを不安がる若い妻を家に置いて猟に出かけようとする。家をとびだし、車にエンジンをかけて、しかし、思いとどまる。家に戻り、妻に朝食を用意してやり、妻と和解する。一篇のクライマックスは、恐らく、夫が妻と和解した後に朝食を摂ろうとする場面、手許が狂ってベーコンエッグをとり落としてしまう場面にある。
いかにも人には手もとが狂うということがある。一歩間違えば、日常は修羅場、和解などといっても薄い氷の上でのことにすぎぬとこのベーコンエッグをとりこぼす場面で、読者は悟り、慄然とするのだ。
成人した娘は「クールで、スリムで、いかしている。事もなく五体満足に成長したというわけだ」が(村上氏訳)、薄氷の上での日常のことを思うと「五体満足」ということがほとんど奇蹟のように感じられる。カーヴァーの作品のつねで、それを奇蹟のように感じるのは読者であって、作中人物ではない。作中人物や語り手も、そう感じているかもしれぬが、カーヴァーふうの作風においては、それは直接文面には語られない。
「五体満足」が奇蹟的なことなのか、陳腐な偶然の堆積にすぎなぬのか。それは語ることのできない領域に属する事柄なのだ。それに関しては、語る者は、語りながら唖者(ダミー)にならなければならないのである。そして、語る者が、語りながら唖者(ダミー)となりえたとき、そこに、唖者(ダミー)であるのに語るものが出現する。読書だ。
カーヴァーの世界は、読書が自己実現しなければ、そこに結局なにも起こらない世界なのだ。なにも起こらないこと自体が、奇蹟的なことだからである。カーヴァーの所謂「コミュニケーションとしての作品」は、この自己実現の別名だろう。
早朝、むずかっている赤ん坊をはさんで、幼い妻と夫が押し問答している無惨な姿。


少女は泣きはじめた。彼女は赤ん坊を寝台に戻した。しかし赤ん坊はまた泣きだした。少女はナイトガウンの袖で涙を拭い、赤ん坊を抱きあげた。

少年はブーツの紐を結んだ。シャツを着て、セーターを着て、コートを着た。ストーブの上でやかんがひゅうひゅうと音を立てた。
どちらかきちんと選んでちょうだいね、と少女は言った。私をとるか〔遊び仲間の〕カールをとるかっていうことよ。
なんだいそりゃ、と少年はいった。
……
二人はじっとにらみあった。それから少年は猟の装備を手にとり、家を出ていった。彼は車のエンジンを入れた。彼は車のウィンドウをぐるっと見てまわり、丹念にひとつひとつ貼りついた氷をこそげ落とした。
彼はエンジンを切り、しばらくシートに座っていた。それからやがて車を出て、家の中に戻った。
居間のあかりはついていた。少女はベッドで眠っていた。赤ん坊は彼女の横で眠っていた。              (村上春樹氏訳)

ひとは、手もとが狂ってベーコンエッグの皿をひっくり返してしまうことがある。ならば、どうして、心狂って「やかん」をひっくり返してしまわぬことがあろう。
カーへヴァーの作品は、日常生活の奥ににぶくひそむ破壊の気配を暗示している。
しかし、かれらは、偶然か奇蹟か、破壊を免れたのだ。「五体満足に成長した娘」、「娘」の原文は「死を免れた者」の意を表す英語survivorである。しかも、この父と娘の再会と会話はクリスマスに設定されている。
カーヴァーは、「死を免れた者」を奇蹟の方に力点を置いて示したのだろうか、偶然の方に力点を置いて示したのだろうか。その両方であるのは当然としても力点はどちらであろうか。救世主降誕の聖なる日においてすら、煮えたぎる「やかん」の記憶は消えないということか。
カーヴァーは僕にこれを改訂して、自選作品集『炎』に再録するにさいし、筋は変わらないが細部を補足して改作した。
煮えたぎる「やかん」の魔を宥め、「死を免れた者」を奇蹟の方に力点を置いて示そうとしての改作といって良い。
改作では、車のエンジンをかけた少年はそのまま遊び友達の家へ出かけてしまうのだが、友達の家で、ハンティング中止の了解をとりつける。しかし「いいんだ。理由は分った。おれも今朝はあまり行動する気はないんだ」という約束不履行を許す言葉だけが友達の口から出たわけではなかった。その友達自身、「いいんだ」という許しの一言に達するまでに、激しい心の葛藤があった。その果てに達した一言なのである。そしてその一言を得て少年は妻の待つ家へとんぼ返りに帰ったのだ。以上が補足改訂された改作の一部分で、それが引用文末尾の「居間のあかりはついていた」につながるのである。
煮えたぎる「やかん」の魔は宥められただろうか。偶然と破壊と不能のハキダメは掃き清められただろうか。それが改作の意図の一部であった。そしてその意図の達成のために、あるいはその意図の達成として、カーヴァーは別の部分にもささやかな改訂を加える。
少年の父の死をめぐる事態を一行書き加えるのだ。少年の父が亡くなっていることは旧作にも触れられている。少年の遊び友達カールが、亡父の猟友であったことも旧作には触れられている。カーヴァーはそこをこのように改訂した。


少年の父の死後、少年と〔カール・〕サザーランドは一緒に猟に行くようになった。多分二人が同時に感じたある喪失感をあがなおうとしたのであろう。

煮えたぎる「やかん」の魔から、少年と少女と赤ん坊を「免れ」させたのは、偶然ではなく、カールの「いいんだ」の許しの一言であった。そしてその一言は、「多分二人が同時に感じたある喪失感」が出現させた一言であった。カーヴァーは、旧作を改訂することによって、奇蹟あるいは偶然を死と統合したのである。そしてその意図の達成のために、また意図の達成の結果として、カーヴァーは、作品に土地の気配を導入する。
旧作では、父と娘の会話は、ミラノのアパートの一室で交わされると記されていたにすぎない。カーヴァーは、それを、ミラノのカスチーナ庭園寄りのファブローニ街のアパートの一室と名指しする。
土地の気配がみなぎる。日常は日常のままに、薄汚れた裏町は薄汚れた裏町のままに、奇蹟の色を帯びる。
土地の気配を探るひととは、あるいは、死に場所を探るひとのことなのかもしれない。酒や鱒はそれをするという。
                     (せんごく ひでよ・アメリカ文学)


最後の方の考察は興味深かったですね(何故かボクは何となくアントニオ・タブッキのことを思い浮かべていました)。きっと全体を覆っている「死の予感」がそうさせたのだと思います。

千石さんの寄稿はこれで終わりますが、今シリーズはまだつづきます。



   

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