デニム中毒者のたわごと

novel

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その38

 
千石さんの文章は更に続きます。

3.
カーヴァーの短篇「ぼくの父が壊れてしまった三つめの事情」の舞台は、ワシントン州のウィナチーという名の田舎町である。製材工場があり、川(クリーク)があり、池があり、池畔には小屋を立てて、貧しく孤独な生活を営む奇人が住んでいる。
ブローティガンの中篇『風がすべてをさらって行くわけじゃない』の舞台は、オレゴン州の西域である。町の名前は明かされていないが、製材工場があり、川(クリーク)があり、池があり、池畔には小屋を立てて貧しく孤独な生活を営む奇人が住んでいる。
そしてどちらも、池と池の魚をめぐる物語だが、ブローティガンの方は、母一人子一人の生活保護世帯の文無しの少年が池の周囲を稼ぎの場としているうちに大人の謎めいた世界を垣間見る物語である。そのクライマックスは、友人と銃の試し撃ちをして遊んでいるうちに、過ってその友人を死なせてしまうエピソードにある。かれは重い罪過を背負って、今までかれが垣間見ていた当の大人の世界へ否応なく参入して行くのだ。そして、恐らくは、かれ自身がかれにとって一個の謎と化して行く。
一方、カーヴァーの短篇は、池と魚をめぐる大人たちの悲劇の物語である。
語り手は、子供のころの悲劇を回想し、それか自分の父を人生不能にした主要原因だと結論づける。その冒頭はこうだ。


ぼくはこれから何がぼくの父を再起不能に陥らせたかを話そう。第三番目にくる事情からいえば、それはダミーだ。そのダミーは死んだ。
第一番目は真珠湾の奇襲。そして第二番目は、ウィナチー近郊の祖父の農場に父が引越したことである。


ダミーというのは父の職場の清掃夫で、唖者(ダム)であることから、そのように呼ばれている。物語は、「ぼく」が、このダミーと父の交際を回想的に語る形をとっている。ダミーにかれ所有の地所内の池にブラックバスなる魚を繁殖させる楽しみを教えたのは「ぼく」の父だった。
このあたりから物語は、ブローティガンの中篇との共有路線を離れる。というのは、何よりも、カーヴァーの短篇は、人生参入(イニシエイション)の物語ではないからである。いや、そうなのかもしれないが、しかし少なくとも、ブローティガンふうの参入の仕方ではない。
父が「再起不能に陥」ったといわれても、それが、失業者になるという意味なのか、アルコール依存症になるという意味なのか、そうしたことは一切触れられていない。ただ父は、知人のダミーの暴力死に出遭ったことが契機で人が変わり、「再起不能」の人間になってしまったというだけなのだ。カーヴァーのこの短篇が、語り手の「ぼく」の人生参入の物語であるとしても、参入すべき人生がいかなるものなのか、そしてそこにいかなる試練や恐怖や難問がひかえているのか、少なくとも読者には分らない。少なくとも、ブローティガンふうの分りやすさでは分らない。
ブラックバスを池に飼いはじめて以来、ダミーは人格が一変した。それまで自分の妻からも人並みの扱いを受けなかった。それも、理由のないことではないような人物だった。ダミーの妻は公然と不貞を働くような女だった。しかし、ダミーは自己を主張するようになった。魚の生命を育てて、自身の生命に目覚めたのだ。ブラックバスの飼育に関する父の助言にも激しく抵抗した。それで父はかれと絶交した。
ある日嵐が吹き、大雨が降り、川は溢れ、橋は洗われた。嵐が止み、雨があがり、西風(チヌーク)が吹きはじめ、荒天は終った。「ぼく」は友人を誘って、嵐の爪跡を見物に出かけた。


ダミーの地所まで来ると、フェンスの針金と針金のあいだに牛が一頭首を突込み、半ば宙吊りになっていた。膨れあがった体はつやつやとして、灰色に光っていた。ものの大小を問わず、ぼくが生まれてはじめて見る死体だった。開いている眼を〔友だちの〕オウリンが、棒切れでつっついた。

川沿いにしばらく行くと、ダミーが池畔に茫然自失してたたずんでいる。池は流され、川に合流し、育てた魚はすべて流失したのだ。「ぼくの知るかぎりもっとも悲しみに打ちひしがれた男の姿」だった。数週間後、食事のとき、父に、「本当にダミーが可哀そうに思えたんだ」と「ぼく」がいうと、父は、「なに、自業自得さ。あの野郎が悪いのさ。でも何となく気にはなるな」といった。そして、それから数週間後のことだった。ニュースがとび込んできたのだ。
ダミーが不貞を働いた妻を殺し、自分は池に入水したというのである。父とぼくは駈けつけた。ちょうど池の中央あたり、ダミーの水死体が引きあげられているところだった。その日以来、父は、人が変わってしまったのである。「再起不能」に陥ったのだ。
短篇は途絶するようにふつりと終る。父が「再起不能」の落伍者に陥る。なぜか父が壊れていく。人生不能になっていく。「不能」がいかなる状態を意味するのか語り手も作者も語らない。いや作者は語っているだろう。語り手ではなく、作品が語っているだろう。
水から引きあげられるダミーの死体は、ものの大小を問わなければ「ぼく」が生涯で見る二度目の死体だったと語っているのだ。ならば、「ぼく」が三度目に見る死体は「父」の死体となるかもしれない。語り手は語らないが、作品は、あるいは、語り手の語り口は、父親の死を暗示している。父親の死を語らぬことが、父親の死を、それがいかなる死であれ、暗示する。いや、死を現出させるのだ。
ブローティガンの中篇には、終始父が不在だった。あるいは誤射による友人の死は、象徴的な意味では、主人公の父親殺しであった。ブローティガンの少年は、自分が殺した当の相手、すなわち友人、すなわち父親へと化身する。過失致死の罪過を担いうるだけの力ある男に化身して、世界へ参入するのである。ブローティガンの中篇は典型的なイニシエイションの物語といえるだろう。
しかしカーヴァーの短篇にはイニシエイション自体は語られない。父の人格的変容が、「ぼく」のイニシエイションとして機能したのかどうか、その点については語られていない。題名は別にして、父の人格的変容が、父の死をも含意することなのかどうかすら語られてはいない。
カーヴァーの短篇は、父の死そのものを語っていないことから推しても、父の死に「ついて」の物語ではない。そうではないが、しかし、それは父の死を現出させる物語ではあるのである。
父の死を語らずに、父の物語を語り終える、もしそれができれば、そのとき、語り手自身の前に父の死が出現する。父の死を出現させるためには、父の死は語られてはならない。
カーヴァーの短篇は、こうした点において、象徴性の水準は異なるにしても、ブローティガンの中篇と同じく、つまるところ、父親殺しと、それによる子のイニシエイションの物語であるとはいえるだろう。カーヴァーの場合は、語ること自体がそうした父親殺しの行為と化すのだが。
壊れてしまった父の姿を書かずにいることが、イニシエイションの遂行となり、遂行としての書き物が、カーヴァーの短篇自体なのである。父の「死について」父の「死に触れずに」手短かに思い出話を語る。それが、語り手の遂行したことにすぎないが、そうすることで作者は語り手に父を殺させたのである。そうして自身が父になったのだ。物語の父になったのである。それを参入(イニシエイション)と呼ぶのに何のためらいもいらぬであろう。
何への参入かは分らないが、このように考えてくると、短篇冒頭は、さらに深い印象を帯びてくる。もう一度読み直してみよう。


ぼくはこれから何がぼくの父を再起不能に陥らせたかを語ろう。第三番目にくる事情からいえば、「それはダミーだ。そのダミーは死んだ」。

ここでダミーを人物の名ではなく、唖(者)、失語(者)の意に解してみよう。父を「再起不能」すなわち究極的には「死」に追いやった事情の第三は、唖、失語、すなわち語らぬことだった。ダミーは死んだ。語らぬことそのことが死んだのだ。
語らぬことが何を語らぬことなのかはいえない。論理はそうなる。そのことを了解した上で先に述べたことを反復すれば、「ぼくの父」を死に至らしめたのは、語らぬことそのことだ。そして語らぬことそのことは死んだ。だから、語る、となる。しかし、だれが語らぬことをするのか、したのか、「何がぼくの父を死に至らせたかを語ろう」と語ったもの。語るまでは唖であったもの。ならばそう語ったものは、語ろうとして、語らぬそのことを語る。そしてそれを語り得たとき、父の死に「ついての物語」が、ではなく、父の死が、ページの上に現出されるのだ。


なるべく千石さんの意に沿って文章を追いかけようとしているんですが、どうにも詭弁にしか聴こえてきません。自説にこだわるあまり強引に論を進めているようにしか聴こえないんです(これはボク自身の読解力の無さを考慮に入れても変わりませんねー)。せっかくブローティガンとカーヴァーの作品の共通性について語られているっていうのにねえ(個人的にも非常に興味のある話題ですから)。

それが、死/父について語るときわれわれの語ることだ。
だから、「愛について語るときわれわれの語ること」は、むろん愛ではない。だから、「愛について語るときわれわれの語ること」は、いかにして愛についてむなしく語りつづけることを止めるかということであり、しかもそのことでもない。愛については語らぬこと、愛は語ることではなく、遂行すべきことだから、などとは、さらに語らない。
愛について語るとき私たちは何を語るのか。そこに「ない何か」と名ざされるもの、同時に、そこに「ない」名ざされ得ぬもの、を語るのである。
カーヴァーは、このようにして、あることの欠如状態を語った。というか、それをある独特の語り方で語ったがゆえに、語ること自体がある欠如を実現したのである。語ることが、ある穴ぼことして実現されたのである。そして、ブローティガンも仕方はちがうが、それをした。ただかれは語り手として、欠如状態を自身に実現した。自殺したのである。
カーヴァーの死は自殺ではなかった。自殺でなかったことがむしろ不思議なことのように感じられる。しかし、晩年の(何という早い晩年)作風を見れば、それが自殺死ではなかったことが、実はカーヴァーにこそふさわしいと感じられもする。


つづきます。



   

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