デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その37

 
千石さんの続きです。
2.
ブローティガンの最後の小説、So The Wind Won’t Blow It All Awayは、荒野から別の荒野へのイニシエイションの物語といえるだろう。文無しの少年主人公は、いうまでもなくマーク・トゥエインの主人公(ヒーロー)ハックルベリーフィン直系の後裔だ。ならば、それは荒野から「地獄」への(ハックの科白)イニシエイションでもあるだろう。ブローティガンの主人公は、銃の誤射によって友人を死なせてしまったのだ。「地獄」に通ずるイニシエイションならば、「死」にも通じているかもしれない。
そして、ブローティガンは死の作家だった。「バン! 放置/20日 男性としてぼくはクソにもなりません 死んでも、メスの蠅いっぴき近づいてくれそうにないのです」。先述の追悼文にも引用した短詩で、あらためてここに引くのも気がひけるが、自殺の姿を予見している詩であろう。
しかし、死の予見というのなら、同様のことは、先年病死したレイモンド・カーヴァーにもいえる。
病院のベッドで病死の場面を迎える自身の姿を空想した「私の死」という詩がある。あるいは、テス・ギャラガーへの献詩の一部はこうだ。


土手に寝ころがって私は眼をとじました
聞えてくるのはミスの織りなす音と
樹々の高みをわたる風の音でありました
風は海峡のむこうを吹き渡っていたのと同じ風です
けれど別の風も吹いているのです。
空想にまかせて、私はしばらくのあいだ、
自分は死んだのだと思ってみました――
はじめの二、三分は、結構いい感じ
体内に深くしみこみ、本当の死に至る
まではということだったのですが。
         (「テスに一〇~一六行目、千石訳)


カーヴァーとブローティガンは、ともに死の作家であるという共通点のほかにも、いくつかの特色を共有している。ブローティガンと同様、カーヴァーも、作品に土地の気配をめぐらせる作家だった。カーヴァーも北西太平洋岸地域に住居を定めた作家だった。カーヴァーもその不景気な地域を舞台として短篇と詩を書いた詩人肌の小説家だった。カーヴァーも釣りと魚の世界を書いた作家だった。ただし鱒ではなく、鮭だ。

夜になると鮭は
川を出て街にやってくる
フォスター冷凍とかA&Wとかスマイリー・レストランとい
った場所には
近寄らないように注意はするが
でもライト・アヴェニューの集合住宅のあたりまではやって
くるので
ときどき夜明け前なんかには
彼らがドアノブをまわしたり
ケーブルTVの線にどすんとぶつかったりするのが聞こえる
……(後略)……   (「夜になると鮭は……」村上春樹訳)

ブローティガンは鱒だ。

鱒色をした風が
眼を通りぬけて吹く。
僕は、鱒たちがどんな手をつかって怪物から身を隠したか覚
えている。
……(中略)……
かれらは地下鉄のなかに隠れた、城のなかに隠れた、自動車
のなかに隠れた。かれらは忍耐強く怪物が行ってしまうの
を待ちつづけたのだ。(「そうです。魚の音楽なのです」千石訳)


小説家としての出自と背景、さらには作風に共通点があるだけではない。二人には、作品の舞台設定にも共通点を有するものがある。
ブローティガンの『風がすべてをさらって行くわけじゃない』とカーヴァーの「ぼくの父が壊れてしまった三つめの事情」は、驚くほどよく似た作品だ。作品の深層と表層の両面で同じ一つの世界を扱っているといえるほどだ。表層的には中篇と短篇の相違はあるし、文体の違いも大きい。はずむような、輝くような、水しぶきのような、陽性で動的な文章がブローティガンの文章だとすれば、カーヴァーのは、起伏の乏しい、表面が小波(さざなみ)立つような、鈍色(にびいろ)の静的な文章といえるだろう。しかし、それぞれめいめいの文章を用いて、二人は、つまるところ、死を描いたのである。
あるいは、さらに、ブローティガンの作品には父親は登場しないが、カーヴァーの方には父親は主要人物として描かれるという相違点も指摘できるかもしれない。
ブローティガンの方には、父親は始めから不在で、カーヴァーの方には、父親が不能になっていく経過が描かれる。しかし、それは始めと終りの相違であるにすぎない。終始のいずれであれ、二人は、父なきアメリカを描いた作家なのである。
父なきアメリカということと、二人の作風が、ともに、短篇志向的かつ断片的で、非構築的であることとは、深く関連しているだろう。さらには、そのことと、二人の作品が日本で受容されていることとは関連があるだろう。二人は、それゆえ、長篇志向的、かつ構築的なジョン・バーストマス・ピンチョンとは同じアメリカの同じ時代の作家であるにもかかわらず、異質なのである。もちろん後者二人にしても、父なきアメリカを描く作家にはちがいない。だが、かれらは、西欧近代の巨大文学の一部分をなすメルヴィルヘンリー・ジェームズの末裔なのであって、父なきアメリカを、「文学あるアメリカ」として描く。バースとピンチョンが同傾向の作家とはいえないにしても、かれら二人の気宇壮大さは、ナチス/ラーゲリ―体験以後の西欧文明の現在、「欧米」といいならわされる北大西洋条約機構内の総合的、構築的軍事文明の暗喩となっているだろう。
今どき現在などといっても、それはもう昨日までの現在にすぎないかもしれない。しかし、そうであればこそ、いよいよ、北大西洋は一体感を帯びて浮き彫りになる。げんにピンチョンやバースの人物たちは、北大西洋を股にかけて活躍するのだ。
しかし、カーヴァーやブローティガンは、北西太平洋にあって、恐らく別の感受性の世界に生きた。とはいえメルヴィルやジェームズとは縁は遠くても、断絶しているわけではない。人物たちも北大西洋を横断しないわけではない。しかしNATO体制的な感受性とはかけ離れているだろう。南北戦争以後の「新南部(ニューサウス)」体制とフォークナーの感受性が相入れなかった程度には、相入れなかっただろう。というよりも、ブローティガンとカーヴァーはNATO体制の落ちこぼれなのだ。マイナーなのだ。不景気なのだ。しかし、だからこそ、侘びしげなアメリカの直喩になっているのである。そして、侘びしげなアメリカとは、いうまでもなく、一つの成熟を遂げたアメリカの姿にほかならない。
たとえばブローティガンやカーヴァーの名をあげると、とたんに顔を曇らせる米国人がいるのを私は知っている。何よりも二人はアルコール依存症だったのだから、アメリカの面汚しだったのだ。西欧キリスト教文明の継承者にして、北大西洋の護民官、そうした東海岸的な体制派(エスタブリッシュメント)の目からすれば、風のなかに舞う目障りな埃なのだ。しかも二人は、そうした東海岸的なアメリカに対して、あのギンズバーグふうの反逆のポーズはとらなかった。せいぜいが皮肉っぽい眼差しを向けたくらいではなかったろうか。しかしそれもアメリカのアメリカなのだ。
同じ北西太平洋岸地域に生まれ、そこに生活の基盤を置く仏教徒詩人ゲイリー・スナイダーがアメリカ現代詩の詩人であるのと同じだ。とはいえスナイダーはアルコール依存症ではない。仏教徒であるせいか、それとも、小説家ではなく詩人であるせいか、あるいはその両方のせいであろう。あるいは、ケン・キージィ。かれは、今は知らないが、薬物常用者だったのではなかったろうか。
北西太平洋岸にあってNATO体制から離れている人々が、北西太平洋岸体制から白眼視される理由はあったのだ。


つづきます。



   

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