デニム中毒者のたわごと

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レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その36

 
今回は『アイロンをかける青年』等の著書で、村上春樹さんを論じた文芸評論家の千石英世さんの、レイモンド・カーヴァーをめぐる文章を紹介しましょう。



パシフィック・ノースウエストの風
                                          死/父/土地の気配

1.
あるとき、吉目木晴彦氏にお目にかかる機会があって、リチャード・ブローティガンの話になった。氏は、講談社からでている『ルイジアナ杭打ち』の作者として知られる小説家だが、題名からもわかるように、小説は、アメリカを素材としている。アメリカが大きく揺らいだ一九六〇年代、氏は少年時代をルイジアナ州バトンルージュで過した。その思い出を張りのある澄んだ文章につづり、一篇の作品に仕上げたのが『ルイジアナ杭打ち』である。




アメリカ南部の風光と、そのなかでうごめく人の気配が肌に触れてくるような作品になっている。日本人の目で、アメリカ南部における人種問題を、「日本人種」をも含めて観察しているという一面もある。
早口で語られる言葉が、小魚が泳ぐようにも聞こえて心地よい氏の話は、そのとき、ブローティガン最後の作品に及んだ。
邦訳名を『ハンバーガー殺人事件』と冠せられたその最後の小説を、私は未読だった。いや、そのとき、いいだせなかったのだが、私は、昔、ブローティガンの自殺の報に接し、ある雑誌に追悼文ふうの文章を寄稿したことがあった。しかしそのときもなぜか最後の小説は読んでいなかった。手にもしていなかった。だから、追悼文は、もっぱら『アメリカの鱒釣り』の作者の死を悼むことになったが、そこに「方言(バナキュラー)と戯れ合ううちに深い悲哀の感情に染めあげられてゆくタイプの作品」と記したのを思い出す。
しかし、ブローティガンは、『鱒釣り』プラス最後の作品で、はじめて一人の作家になると氏に控え目に教示された。それを機に、最後の小説を手にとってみた。そこには『鱒釣り』に感取された長所は長所のままに、さらに加えて、小説にふさわしい小説的事件が描かれていた。邦訳題は、その事件の内容を汲んで冠せられたものであることも分った。そして、その小説的要素を重要視するのが小説家の立場だと『ルイジアナ杭打ち』の作者が強調していたのに思い至った。小説家として当然の反応と、共感を覚えるところだ。
そこで気づいたことが一つある。それは、吉目木氏自身の作品も、ブローティガンの作品も、どちらも土地の気配にみちているということだ。
ブローティガンの作品の舞台は、アメリカ北西部太平洋岸(ノースウエスト・パシフィック)、すなわち北カリフォルニア、オレゴン、ワシントンに渡る地域、この場合は西オレゴンであって、吉目木氏のルイジアナとはかけ離れている。しかし、ブローティガンの作品も、西オレゴンの風光と、そのなかをただようようにうごめく人の気配を伝える作品になっている。どちらもアメリカの奥深くに広がり、点在する田舎町(タウン)が舞台なのだ。ニューヨークやロスアンゼルス、あるいはトーキョーといった産業メガロポリスが舞台ではなく、また、大学や政界財界といった情報メガロボりスが舞台でもなく、風光と人の気配が、大気の波動となって混じり合う世界だ。地図にいう南北ではなく、政治経済用語にいう南北の「南」の要素を残した世界である。貧困地帯とはいえないにしても、産業不振の影が色濃くにじみ、時の歩みも人の歩みも鈍く重い世界、しかし、フォークナーの南部のような過去の衝動につき動かされるような世界ではない、一口にいえば、日常が日常として運行される世界、日常が日常としてしか運行されえぬ不景気な世界である。
『ルイジアナ杭打ち』では、主人公一家をはじめとする登場人物は、当然のことながら土地の他所者(よそもの)である。それゆえかれらは、他所者の皮膚感覚で土地の表面の風光と人気に反応する。それで見知らぬ土地は深い気配を帯びてくる。
一方、ブローティガンの最後の小説、『風がすべてをさらって行くわけじゃない』は(『ハンバーガー殺人事件』を行論の都合上、この名で呼ぶことにするが)、主人公の文無し少年が、文無しのゆえに、そして年少の文無しのゆえに、現実にではなく、現実の表面、つまり土地と風光の外面に反応する。
いずれの場合も、現実の奥、歴史や社会の熱い内面からは隔離されているのだ。あるいはブローティガンの場合は、土地が、ただ新しいだけの土地なので、地面に内面が堆積されていないのである。そうした土地に住む人々の特性は、だから、土着性や土俗性ではありえない。人々は風の吹くなかを風のように漂うのだ。風がすべてをさらって行くわけではないにしても、人々は土俗と風俗の交錯する世界をさまようのである。げんにブローティガンの主人公は、同一地域のあちらこちらに引越しばかりしている。それゆえここにいう土地の気配は、地霊の域には恐らく達しない。
もちろん吉目木晴彦氏とブローティガンを同日に論じることははできまい。しかし、比較の端緒とすることはできよう。
日本の近代小説は全て都市小説である。舞台がいかに奥深い田舎に設定されていようとも、そこは文化の息吹にさらされた都の延長なのだ。西欧文明史にいう荒野としての新世界を持たぬ日本文明の当然の帰結だ。ならば『ルイジアナ杭打ち』も、そのような日本文明の一部なのである。それを西欧文明の一部であるブローティガンの作品と無前提で同日に語るわけにはいかない。ブローティガンの奥深い田舎は、荒野なのである。そして『ルイジアナ杭打ち』は、そのような荒野の目撃譚として、日本文明の一部をなすのである。


うーん、分かったような、分からんような……、やっぱり、何を言ってるのかよく分かんない(サンドウィッチマンかよ!)話ですね(でも、これが千石さんヴォイスではあります)。

つづきます。



   

~ Comment ~

わたしもです 

>うーん、分かったような、分からんような……、やっぱり、何を言ってるのかよく分かんない

わたしも読んでいて同じ感覚に襲われ、もしかしてこれはわたしが読解できてないだけなのかな、脳が。。。って思いながら最後のコウさんのコメントを見て笑ってしまいました。

同じでよかった! 

まおまおさん、こんにちは^^

>>うーん、分かったような、分からんような……、やっぱり、何を言ってるのかよく分かんない

>わたしも読んでいて同じ感覚に襲われ、もしかしてこれはわたしが読解できてないだけなのかな、脳が。。。って思いながら最後のコウさんのコメントを見て笑ってしまいました。

これって、完全に理解できたとしたら、やはりどこかがあたたかいのだと思うんですが……。
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