デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その35

 
柴田元幸さんの文章は今回で最後になります。

一九七〇年代、八〇年代は、いかなる意味でも現在を特権視できないことを大きな特徴としている。六〇年代の高揚の後日談として進行した七〇年代、八〇年代に現われた作家たちは、喪失感に浸されながらも、その喪失感に酔うことをもはや許されていない。おそらくその点が、二〇・三〇年代のロスト・ジェネレーションとの最大の違いだろう。
時代を浸す「酔えない喪失感」を描くために、カーヴァーの方法が最良であったというつもりはないし、そもそもカーヴァーの小説が時代の空気を捉えることを目的としていたと考える根拠もありはしない。だが、結果としてレイモンド・カーヴァーの文学が、七〇年代、八〇年代の随所に感じられた虚脱感、無力感の最良の表現のひとつになっていることは疑いえない。
すでに触れたように、結果的に「晩年」の作品となったカーヴァーの作品群を読むと、自分の小説の枠を拡げようとする意欲がそこにははっきりとうかがえる。たとえば「ブラックバード・パイ」という短篇では、妻に出て行かれる夫、というおなじみの状況を扱いながら、それをこれまでとはかなり異なったタッチで描いている。いままでと全然違う筆跡の手紙を書いた妻が、どこからともなく現れた二頭の馬とともに霧の中を去っていくという奇怪な物語を、ポーにも通じる、どこか狂気じみた、妙に論理的な文章で綴っているのだ。あるいは「親密さ」という痛ましい短篇では、作家である、あたかもカーヴァー本人と重ねあわせて読まれることを意図されているような主人公が、以前の妻に会いにいく。そして妻は、まるで成句辞典でも読みあげるかのように、「紋切型」の罵倒の言葉を次から次へと作家に浴びせ、いい加減に暗い過去は忘れたらどうなの、となじるのである。それはほとんどカーヴァー自身によるカーヴァーのパロディという様相を呈している。あるいはまた、すでに述べた「使い走り」のように、現代アメリカのカーヴァー・ワールドをまったく離れた作品もある。おそらくここで「カーヴァー的」と規定してきた小説世界は、「本来なら」、カーヴァー文学のひとつの側面、一時期の傾向となるべきものだったのかもしれない。


以上で柴田元幸さんの文章は終わります。



   

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