デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その34

 
柴田元幸さんの文章の続きです。

その雄弁さはたとえば、いっさいの感傷を排して撮られた、ウォーカー・エヴァンズによる古靴の写真がもつ雄弁さに似ている。実際、カーヴァーの小説に出てくる人々は、エヴァンズとジェイムズ・エイジ―との共著『我らが有名人を讃えん』に載った貧しい白人たちの写真を思わせる。どちらも貧しさ、悲惨さにまつわる出来あいの物語をはぎ取ることころから語りはじめ、撮りはじめているからだ。
『アメリカの写真を読む』においてアラン・トラクテンバーグは、エヴァンズの代表的写真集『アメリカの写真』の詳細な分析を試み、その中心テーマは「無名性」であると指摘している。



同じことがカーヴァーの小説にもいえるだろう。たとえば固有名詞の使い方を考えてみるとよい。ふつう作家は、人物なり情景なりに個別性を付与しようとして固有名詞を用いる。だがカーヴァーの場合、固有名詞はむしろ個性をはぎ取る役割を果たす。カーヴァーの登場人物たちは「セイフウェイ」や「Kマート」(どちらも全米に広がったスーパーマーケットのチェーン)で買い物をし、「デニーズ」で働く。それらの名前が示唆するのは個別性ではなく個別性の欠如だ。人名にしても、かりに「カーヴァー的」ともいうべき名があるとするなら、それは「ウェス」「フラン」「ロス」といった、一音節か、せいぜい二音節の、名前というよりは記号に近い響きをもつ名である。
会話にしても同じである。カーヴァーの登場人物は紋切型の表現を多用する。それは人物の個性をきわ立たせるよりも、人物をますます没個性的にする。語れば語るほど、人は無名性の中に埋没していく。
だがカーヴァーは、登場人物に紋切型の表現を語らせることによって、その没個性を批判しているのではない。「SHINE(靴みがき)」「DRY CLEANING」などと書かれた看板を撮った、エヴァンズの一軒奥行きのない写真に独特の現実性があるように、カーヴァーの登場人物の紋切型の言葉にも、いわば無個性の存在感とでもいうべきものが感じられるのである。
たとえば、 「ささやかだけれど、役にたつこと」に出てくる黒人の老人は、次のように語る。


わしらのフランクリンは今手術台の上におるんです。誰かがあいつを切ったんだ。殺そうとしたんですよ。喧嘩に巻き込まれましてな。パーティーだったんです。あいつはただ見物してただけだってことです。誰の怨みを買うようなこともせんかった。でも当世そんなこともう関係ないんですな。それで、あいつは今手術台の上におるんです。わしらただ希望を持って、お祈りするしかない。それ以外になんともしようがないのですわ。

「誰の怨みを買うようなこともせんかった」。「でも当世そんなこともう関係ないんですな」。「わしらただ希望を持って、お祈りするしかない」。いかにも紋切型である。だがそれは陳腐ではない。ここで達成されている効果は、たとえばフラナリー・オコナーの次の一節の効果とはまるで別種のものである。

「善人はなかなか見つからんもんです」とレッド・サミーは言った。「何もかもがどんどん悪くなってきておる。昔は玄関に鍵なんか掛けずとも出かけられたもんだ。でも今日び、もうそんなことはできやせん」
「善人はなかなか見つからない」引用者訳)


レッド・サミーの言葉は「浮いて」いる。うつろに響く。むろんそれは作者の意図したところである。オコナーはレッド・サミーの紋切型思考と自己満足を痛烈に皮肉っている。思考というよりも思考の停止を浮彫りにしている。これに対し、カーヴァーは皮肉や批判を意図してはいない。むろん自分の同情を押しつけたりもしていない。作者の誠実な共感がこめられているから老人の紋切型が生きているのだと考えるのは的外れである。類型になってしまうぎりぎりの地点で、作者は老人に紋切型を「生きさせて」いる。あえていえば、この生きた紋切型は、人物の「個性」という考え方の有効性そのものを控えめに問うているようにさえ感じられる(この意味でカーヴァーが日本において村上春樹というすぐれた翻訳者を得たことは、大きな幸運だったと言わねばならない。翻訳者としての村上春樹は、紋切型を操るのが実に巧みであり、原文の「紋切度」を非常に忠実に再現しているからだ)。
宙づりにされた時空に生きる、限りなく無名に近い人物を描く。それがカーヴァー文学の核心であり、カーヴァーの小説のさまざまな魅力も、何らかの意味でこの点にかかわっているといっていい。
たとえば、比較的初期の作品に「デブ」(“Fat”)という短篇がある。あるレストランにものすごく太った客がやって来て、ものすごい量の食事を平らげていく。話はそれだけである。物語は、この客に給仕した、いくら食べても太れないウェイトレスが友人に語って聞かせるというかたちを取っている。結末近くに至って、客も帰って店は閉められ、ウェイトレスは同棲相手のコックとともに寝床に就く。


私はベッドに入って、端っこの方に引っこんで、腹ばいになって寝ていた。でもすぐに、明かりを消してベッドに入ってきたとたん、ルーディが「こと」をはじめたの、私は気が進まなかったけれど、とんかく仰向けになって体の力を抜いていたわ。だけどそのときに、妙なことが起きたのよ。彼が私の上に乗ってきたとき、私は突然、自分が太ったような気がしたの。ものすごく太ったような気持になったのよ。ルーディなんかちっぽけで、ほとんどそこにいないくらい私は太ってるんだという気持ちにね。      (引用者訳)

彼女が太った気になったところで――あるいは実際に太ったところで――何も変わりはしない。誰かが助けられるわけでも、何かが救われるわけでもない。だが、皆の嘲笑の種である男の「デブ」性を、彼女が想像の中で引き受けることによって、物語の見通しがぱっと拡がるのを我々は感じる。これは非常に快い経験である。同じようなことが、カーヴァーの作品の結末にしばしば現われる。登場人物がかつての、おそらくはいまよりは幸福だった日々をふっと思い出す瞬間についてもいえる。たとえば「象」(その1その2)の中で、親兄弟からさんざん金をせびられてにっちもさっちも行かなくなっている主人公が、父親に肩車をしてもらったときの記憶を夢に見る場面がそうだ。夢によって事実は何ひとつ変わらない。だが世界は確実に拡がっている。それまでに溜めに溜めていた息が、一気に吐き出されるような思いがする。この爽快感はカーヴァーを読む上での大きな快楽である。そしてむろんその効果は、そこに至るまでの小説世界が、外界から切断された、孤立し閉ざされた時空であることに負っているのだ。

つづきます。



   

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