デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その33

 
柴田元幸さんの続きです。

マスコミュニケーションの発達、テクノロジーの進歩は、空間的隔たりを消滅させたといわれる。たとえばテレビの普及によって誰もが「標準的」な言葉を話すようになったという現象は日本だけのものではない。アメリカについて考えても、ベトナム戦争にせよ月面着陸にせよ、アメリカ人はテレビを通してその体験を全米的に――月面着陸の場合はおそらく全世界的に――共有した。テレビによって大陸全体、世界全体がひとつのグローバルな村になったという発想は、現代ではすでにおなじみのものだ。
カーヴァーの小説でも、テレビは頻繁に登場する。現実のアメリカ人家庭の大半がそうであるように、電話とならんでテレビはカーヴァー・ワールドのもっとも基本的な電気器具である。にもかかわらず、カーヴァーにおけるテレビは、家庭と外の世界をつなぐ回路としての役割をいささかなりとも担っていない。グレアム・クラークがすでに指摘しているように、カーヴァーの小説において、テレビに何が映っているかが具体的に述べられることはほとんどない。テレビはただ「ついている」(praying)だけだ。「したがって、つきつめていえば誰一人としてテレビを見てはいない」とクラークは述べている。その通りだろう。見えていても見てはいないのだ。グローバルな村を形成するどころか、テレビはまるで、その前に座った人間の生気を吸いとりつづけるブラック・ボックスのようだ。
むろんここでも例外はある。「大聖堂」での、ヨーロッパ各国の聖堂建築を紹介する番組の描写がそれである。だがここでは事情はいささか特殊である。画面に映っているものを語り手が盲人に説明しようとする、という状況になっているからだ。しかも語り手は、「なにしろものすごく高い建物なんです。ものすごくものすごく高いんです」といった具合に、お世辞にもうまく説明できてはいない。この例外もまた、見えていても見てはいないというカーヴァーの一般原則を、むしろ補強しているように思える。
クラークの有益な指摘をもうひとつ挙げれば、カーヴァーがつねにスモール・タウンを舞台にしていながら、彼がけっして共同体を描いてはいない、という点である。カーヴァーが描くのはあくまでも、その共同体の中に住む個人である。多くの場合その個人は、共同体と何ら有機的な結びつきをもってはいない。登場人物の多くが「町外れ」に住み、しかもそのおそらく半数くらいが「失業中」であることは、そのことを暗に語っている。先に引用した「サンフランシスコで人は何をするか」の語り手の郵便配達人のように、いわば町全体の目を代表するような人物は、カーヴァーにおいてはむしろ例外的存在である。ほとんどの人物は、自分の住む町にこれといって愛着も憎悪も感じてはいないし、特に親しい友人がいるわけでもない。テレビがただ「ついている」だけであるように、彼らはその町に「住んでいる」だけだ。時間的にも空間的にもぽつんと宙づりにされた共同体の、その中でまたぽつんと宙づりにされた人間をカーヴァーは描きつづけたのである。孤立した小さな世界の中でさらにまた孤立している人間は、いわば限りなく丸腰に近い存在である。
丸腰、といっても、巷に氾濫する疑似現実の表層をつき抜けてカーヴァーが人間存在の本質にたち返っているとか、虚構性を排して人間的真実の核心を描いているとかいうつもりはない。むしろ逆に、現代にあってはテレビをはじめマスコミが大量に放出しつづける疑似現実こそが我々の現実の核心をなしているのだ、という見解も十分成り立つはずである。カーヴァーのように、外部から流れ込んでくるそうした疑似現実を排除して小説世界を構築することは、ひとつの意図的選択である。原理的には月を舞台に小説を書くことと変わらない選択である。
ちなみにカーヴァーとまったく逆の方法を選んだのが、カーヴァーも絶賛しているポストモダニスト作家ドナルド・バーセルミだろう。疑似現実が産出しつづけるジャンクの山を素材に、バーセルミは独自のリアリティをもった小説を書いてみせたからだ、カーヴァーにせよバーセルミにせよ、リアリティのそれぞれ違った側面に焦点をあわせた、それぞれ等しく有効なアプローチを選んでいるのだ。
いずれにせよ、かぎりなく丸腰に近いカーヴァーの作中人物たちは、職にあぶれ、その月の家賃をどうやって払うかも定かでないアパートにとじこもって、結果的には他者に近づくというよりは近づき得ないことの確認に終わることの多い会話を交わし、すでに崩壊してしまった関係を修復しようと空しく試み、アルコール中毒を直そうと苦闘する。多くの場合それは、悲惨というほかない状況である。
だが、たぶんこれがカーヴァーの小説の最大の特徴だと思うのだが、カーヴァーはそうした状況を「悲惨」として描いてはいない。もちろんそれは、苦しみにも挫けず希望を捨てないたくましい人々、といった脳天気な話ではない。だが悲惨は何よりもまず距離の問題である。状況を外から見て、それを「悲惨」として意味づける視線が悲惨さを生む。カーヴァーの小説にはそのような外からの――上からの、といってもいいかもしれない――視線が感じられないのである。
むろんそれは、登場人物が自分や他人の置かれた状況の悲惨に対して鈍感だということではない。たとえば、「足もとに流れる深い川」の語り手の女性は、乱暴され殺された若い娘の痛みを自分自身の痛みとして捉えて苦しむ。それを捉えられるか否かが、彼女と彼女の夫とのあいだに隔たりをもたらすのだ。だが作品自体は、その痛みに過剰な意味づけを付すことをあくまで避けている。日常的状況も悲惨な状況も、同じように淡々と語られている。
あるインタビューで、カーヴァーはある書評家を批判してこう述べている。


アナトール・ブロイヤードが僕の短篇「保存されたもの」を批判してこう言った。「よろしい、冷蔵庫が壊れた――それならさっさと修理屋を呼んで、直させないのか?」馬鹿げた発言だと思う。修理屋に来てもらって冷蔵庫を直させたりしたら、ちょっとした修理だけでも六十ドルかかるんだ。もし完璧に壊れてでもいたら、いっいいくらになる? プロイヤードは知らないかもしれないけどね、世の中には修理に六十ドルかかるとなれば修理屋を呼ぶ余裕のない人間もいるんだ。保険に入ってなきゃ医者にだって行けないし、歯医者に行きたくともお金がなくて歯を駄目にしてしまう人だっている。そういう状況は僕には非現実的とも人工的とも思えない。

この発言におけるカーヴァーの憤りは正当である。そしてこの発言には、修理屋を呼ぶゆとりのない人々に対するカーヴァーの共感が感じられる。だがいうまでもなく、彼の小説が力強いのは、そのような憤りも共感も排して書かれているからだ。問題の短篇「保存されたもの」は次のように終わる。

サンディーは新聞を片付けて、食べ物をテーブルの端の方に押しやった。「座ったら」と彼女はもう一度繰り返した。夫は片手に持っていた皿をもう一方の手に移し変えた。でもまだじっとそこに立っていた。彼女がテーブルの上に水がたまっていることに気づいたのはその時だった。水の音も聞こえた。水がテーブルの上からリノリウムの床にぽとぽととしたたり落ちる音だった。
彼女は夫の裸足の足に目をやった。水たまりのとなりにあるその両足を彼女はじっと見た。こんな異様な光景を自分が目にすることはこの先二度とあるまい、と彼女は思った。でもそれに対していったいどう対処すればいいのか、彼女には全然わからなかった。口紅を塗って、コートを持って、さっさと競売にでかけてしまった方がよさそうだと彼女は思った。でも彼女は夫の足もとから視線をそらせることができなかった。彼女はテーブルに皿を置き、じっとそこを見つめていた。やがてその裸足の両足は台所を離れて、また居間に戻っていってしまった。


冷蔵庫が壊れて溶けてしまった食べ物から流れる水の意味あいを十全に感じとるには、作品中で夫がくり返し眺めている二千年間地中に埋もれていた男の写真なども念頭に置く必要がある。だが、ぽたぽたと垂れる水と、そのかたわらに立った裸足の足と言う構図の鮮烈な印象は、この一節からだけでも十分うかがえる。文章から浮かび上がってくるのは事物の圧倒的な存在感であり、悲惨な状況に対する同情ではない。だからこそ雄弁なのだ。

つづきます。



   

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