デニム中毒者のたわごと

novel

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その32

 
青土社が出版している雑誌に『ユリイカ』があって、特集号なんかを集めていた時期がありました。その中にレイモンド・カーヴァー特集号もあったんですね(1990年6月号がそうでした)。

『ユリイカ』は「詩と批評」と謳っている雑誌ですが、企画が面白く、1980年代には率先してラテンアメリカ文学などを紹介してくれて、わくわくしたものです。

で、カーヴァー特集号ですが、村上春樹さん訳の短篇小説はもちろん、インタビューやら論文やらがてんこもりのファン垂涎の誌面になっているんですよね。

その中から今回は柴田元幸さんの「無名性の文学――カーヴァー的世界のなりたち」を紹介しましょう。

レイモンド・カーヴァーの小説には年号が出てこない。ケネディ暗殺、ベトナム戦争、ウォーターゲートといった、現代のアメリカ人が時代をふり返る際に基準点に用いる歴史的事件が言及されることもない。語り手は時代設定の作業をまったくといっていいほど行わない。内容からみて、ほとんどの物語は第二次大戦以降の、とりあえず現代と呼んでよそうな時代を舞台としていることはわかる。だがそれは、全米的・世界的な歴史の流れからぷつんと切りはなされた、一種無時間ともいうべき時間である。
それは停滞した、澱んだ時間である。澱んだ。といってもそれは、たとえばフォークナーの場合のように、過去が現在に重くのしかかり、現在を呪縛しつづける濃密な時間とも違う。そこでは何も蓄積されない。時間はただ過ぎていく。それはより大きな歴史の流れから切りはなされているだけでなく、それ自身の流れからも切りはなされている。孤立した現在が次から次へと生起していくだけだ。
例を挙げて比較してみよう。たとえば同じく現代アメリカの作家ジェイン・アン・フィリップスは、秀作「レイミー」を次のように書きはじめている。




学生時代、わたしたちはみな占い師を必要としていた。外の世界で何が起こっているのか、誰もよく知らなかったし、誰もそういうことを深く考えなかったからだ。わたしたちはテレビを持っていなかったし新聞もほとんど買わなかった。共同体生活は、踊り手の全員がパートナーを代える途切れのないダンスのように見えた。   (斎藤英治訳)

この短篇が雑誌初出時には「ある七〇年代の思い出」という副題が添えられていたという事実を知らなくとも、あるいは作品の結末近くになって「今はまだ一九七四年の九月で」という記述が出てくることを知らなくとも、我々はこの一節から、語り手がひとつの「終わってしまった」時代を回顧していることを感じる。過ぎ去った時代を「外から」見ていることを認識する。
これに対し、たとえばカーヴァーの「シェフの家」は次のように書き出される。


その夏、ウェスはユウリーカの北で家具つきの家を借りた。家の持ち主はシェフという以前アルコール中毒だった男だった。それからウェスは私に電話をかけてきて、そっちの方のことは忘れて、ここに来て一緒に住んでくれないかと言ってきた。俺、酒を断ってるんだよ、と彼は言った。
  (村上春樹訳。以下カーヴァーの作品は特記なき限り村上訳)


こうして語り手は「その夏」の出来事を語り出す。だが彼女はそれを完結した時間として、外から語るのではない。内側から語っているのだ。そもそも何年前のことなのかいっこうにあかされない「その夏」に対し、彼女はいささかの距離も置いていない。過去に対し郷愁や余裕を感じる権利を彼女ははなから放棄している。「レイミー」にあっては一九七四年九月の「わたし」と語っている時点での「わたし」がいる。「シェフの家」では、語っている時点での「私」は第一文とともにすでに消滅している。そこでは過去は現在として、孤立した現在として、もう一度生きなおされている。
このようにカーヴァーの小説世界の時間が、孤立した現在ともいうべき無時間的な時間であるとすれば、空間はどうだろうか。たしかに年号がいっさい与えられないのに対し、空間についての記述はもう少し具体的であり、舞台の地名が与えられている作品も少なくない。多くの場合それはアメリカ北西部の、実在の小都市の地名である。一応の空間的個別性は与えられているわけだ。しかしそれらの町は、アメリカの一部、もしくは世界の一部といったふうに、より広い空間の一部をなしているという印象が非常に希薄である。
たとえば次の二つの文章を比較してみるといい。

ヴァージニアのこのあたりでは、八月には三十八度近くまで気温が上がる。六月と七月には土のにおいがしていた大地も、八月にはからかせに乾いてしまう。いまは、土のにおいの代わりに花のにおいがする。風が熱い。ブルーリッジ山脈には「もや」がかかり、その「もや」が煙草のけむりのように宙に漂っている。

アーケイクは小さな町じゃないし、大きな町ともいえない。まあどっちかといえば小さな町に近いということになるだろう。でもとにかく、この世の果て、とかそういった場所じゃない。ここに住んでいる連中はたいてい、製材所で働いているか、漁業に携わっているか、でなければダウンタウンの商店に勤めている。


最初の引用はアン・ビーティの「いさり火」(亀井よし子訳)、第二の引用はカーヴァー「サンフランシスコで人は何をするか」(引用者――柴田訳)からのものである。



「ヴァージニア」「ブルーリッジ山脈」といった、アメリカ人なら知らぬ者のない地名を盛り込んだアン・ビーティの記述は、明らかに「全米的」な視点から語られたものである。語られているのは、アメリカ全体の中に位置づけられたヴァージニアである。それはアメリカの地図の中に特定の位置を占めた場所であり、アメリカ人がヴァージニアについて多かれ少なかれ抱いているイメージにある程度依拠し、ある程度それを補強する場である。
これに対しカーヴァーの一節には、アーケイタという人口一万あまりの、西海岸に面した小都市を、そのように全体の中に位置づけようとする意図が感じられない。アーケイタにはカーヴァーが一時通っていたフンボルト・カレッジがある。具体的に書き込もうと思えば不可能ではなかったはずである。にもかかわらずこれは、「製材所」と「漁業」という言葉さえ取り替えれば、アメリカじゅうのあらゆる小都市についてあてはまりそうな描写である。「エブリマン」(どこにでもいる人)という表現をもじれば、「エブリプレイス」とでもいえそうな場所である。
しかもこの一節は、物語の舞台に関する説明として、カーヴァーの作品群にあっては例外的に長い部類に属するのである。多くの場合、共同体は便宜上とりあえず名づけられるか、名さえも与えられずに終わるのだ。たとえば「ささやかだけれど、役にたつこと」は、「土曜の午後に彼女は車で、ショッピング・センターの中にあるパン屋にでかけた」という一文ではじまる。ショッピング・センターがひとつある町――つまりはアメリカじゅうに無数にある町のひとつということ。舞台設定はそれで終わりである。
当然予想されるように、カーヴァーの小説には大都市がほとんど出てこない。シカゴに住むセールスマン、サンフランシスコからやって来た夫婦などが時おり顔を出すのがせいぜいであり、それらの大都市が物語の舞台となることはけっしてない。カーヴァーの世界にあっては、ニューヨーク・シティは存在すらしていないのではないかと思えてくる。
つまりは時間の場合と同じである。カーヴァーの登場人物たちは、より大きな空間から切りはなされた、孤立したスモール・タウンに――多くの場合はそのまた町外れに――生きている。彼らがそこにとじこめられているというのではない。たとえば「轡」に出てくる一家は、ミネソタからアリゾナへ流れてきて、やがてまた「何処か別の場所に新たな天地を求めて移動して」いく。だがその空間的移動には、何らかの意味で上昇もしくは下降を示唆するような、象徴的意味あいはまったくない。それは単なる横滑りである。孤立した一点から、孤立したもうひとつの点へ移動するだけだ。
時間的にも空間的にも、ぽつんと宙づりにされた時空。それがレイモンド・カーヴァーの小説空間である。
むろん例外はある。たとえば、結局はカーヴァー最後の小説作品となった「使い走り」は、「チェーホフ。『一八九七年三月二十二日』、彼は『モスクワで』、友人にして相談相手のアレクセイ・スヴォーリンと一緒に夕食に出かけた」(『』内柴田)という書き出しで我々を驚かせた。そもそも「使い走り」にかぎらず、カーヴァーの「晩年」の作品には、それまでの「カーヴァー的」要素をかなり意識的に逸脱しようとしているところがある。この点についてはのちにもう一度触れようと思うが、ひとまずは「カーヴァー的」時空の検討をつづけよう。


つづきます。



   

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