デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その31

 
村上春樹さんの文章の続きです。

なぜ彼が長篇をあきらめて短篇と詩に集中するようになったかという肝心の事情が書かれていないので、これではまるで要領を得ないわけだが、とにかくその時点からカーヴァーは長篇中心という文壇の風潮に抗して短篇という限定されたフォームに集中力を注ぎこむことによって、独自の小説世界を作りあげていくことになるのである。
この「ニューヨーク・タイムズ・ブックレビュー」のエッセイの中でカーヴァーは短篇小説論のようなものを展開しているわけだが、これは文章としてとくに面白いというほどのものではない。どちらかというと平板で防禦的で硬直しているような印象さえ受ける。この人は経歴をはじめとして、プライヴェートな部分をなるべく押し隠そうという性向があるのか、感情表現が妙にポキポキと折れ曲がっている。しかしそれが「小説」というひとつのシチュエーションを与えられると、そこに不思議なリアリティーとリズムが生じるのである。
「かつて私がかなり出来の良い短篇を書いた時、最初私の頭の中には出だしの一行しか浮かばなかった。何日か私はその一行を頭の中でこねくりまわした。『電話のベルが鳴った時、彼はちょうど電気掃除機をかけているところだった』という文章である。私はこの一行の中にはストーリーがつまっていて、外に向けて語られたがっている、と思った。私はそこには物語があると骨の髄にまで感じた。時間さえあれば、それを書くことができるのだ。そして私は時間をみつけた。まる一日あればいい。十二時間か十五時間でもいい。うまくやれば、それで間にあう。私はそれで、朝机に向い、最初の一行を書く。それにつづく文章が次から次へと浮かんでくる。私は詩を書くのと同じようなかんじで短篇を書く。一行ができて、その次の行が浮かぶ。まもなく物語が見えてくる。それは私がずっと書きたいと望んでいた私の物語である。」
これがカーヴァーの短篇小説作法である。ここに収められた何篇かの彼の作品を読んでいただければ、彼のそのような創作姿勢はかなりはっきりと――良くも悪くも――感じていただけるのではないかと思う。良い点をあげるとすれば、彼の短篇にはいかにもといった「トリック」や「おち」がないことだと思う。最初に全体のストラクチュアが存在しないわけだから、「おち」(カーヴァーの表現を借りればcheap-trick)の持ちこみようもないのである。カーヴァーの短篇の最大の魅力は「無意識下における意外性」と言ってもいいと思う。そしてそれはカーヴァー自身も指摘しているように、詩作とかなりの部分で共通点を有する作業である。だからカーヴァーが自分が長篇を書けないことで「そこには才能(talent)が必要だ」と言う時、その中には自分は他人にはない適性(タレント)もあるのだという自負ももちろんこめられているわけである。
悪い点をあげるとすれば(それが悪いことなのかどうか断言はできないわけだが)、それはあまりに個人的な意識/無意識性の世界にとどまり、小説として保守化・硬直化していく危険性を有していることであると思う。しかしこういう決めつけ方は訳者としては結論を急ぎすぎているかもしれない。とにかく実に「読ませる」短篇だし、文章はきびきびしているし、シチュエーションは刺激的である。僕の感想を言えば、writer’s writer(小説家受けのする小説家)という表現がいちばん近いかもしれない。
先ほどカーヴァーは自分のプライヴェートな面にあまり触れたがらない作家、と書いたが、たしかに何冊かの彼の短篇集を読んでもレイモンド・カーヴァーという作家のイメージはさっぱりと浮かんでこない。殆んどの作品に彼と同年代の中年男が登場し、舞台も彼が暮してきたオレゴン、ワシントン、北カリフォルニアというあたりが選ばれているにもかかわらず、作家の肉声が実に巧妙にガードされているわけで、このへんの雰囲気は大変面白かった。そういう点ではカーヴァーの短篇はいわゆる日本の伝統的短篇小説とはかなり趣を異にする。
内容についてはとくに説明の必要もないと思う。読んでいただいたままの世界であり、読んでいただいたままの内容である。人間存在の有する本質的な孤独と、それが他者とかかわりあおうとする際(あるいは他者とかかわりあうまいとする際)に生じる暴力性が重要なモチーフとなっており、西海岸北部の奇妙に粗い風土(ケン・キージーもオレゴン出身だ)とこわばりついてしまったような中産階級の風景がその舞台として選ばれている。日本においてそれに相応するシチュエーションはちょっと思いつかない。たぶん日本における中産階級がまだそこまでこわばりついた存在ではないからだと思うが、そういう意味ではカーヴァーのこのような短篇群はひとつの予感として読みとっていただけるのではないだろうか?
文章自体はそれほど難解なものではないが、そのユニークな語法を日本語に置きかえるのはかなり困難な作業であった。
なおカーヴァーという人はかなり奇妙な執筆作業をする人で、ひとつの物語をリライトして短くしたり長くしたりという例が多い。ここに収められた作品を例にとると、「足もとに流れる深い川」はこれが長い方の版で、カーヴァーはのちに「愛について……」の中で短く書きなおしている。短い方では妻は最後に夫の要求にこたえてセックスをしようとする。どうしてカーヴァーがわざわざこんな風に書きなおしたのか、僕にはよくわからない。というのは最初の版の方がずっと面白くて、ずっとよく書けているからである。逆に「菓子袋」は短い版の方をとった。「足もと……」と同じように長い方は「Furious Seasons」に収められているので、興味のある方は比較してみて頂きたい。
ここに訳出した以外にもカーヴァーの短篇にはかなり面白いものが多い。機会があればまた訳してみたいと思う。最後になったが原文のコピーをお貸し頂いた志村正雄氏、高橋源一郎氏、また資料をお貸し頂いた青山南氏に深く感謝するものである。


翻訳界のビッグネームが並んでいますねー。やはりあれこれと交流があったんでしょうね。そんなことを想像するのも楽しいです。



   

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