デニム中毒者のたわごと

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レイモンド・カーヴァーに学ぶ その24

 
「レイモンド・カーヴァー全集」には数ページの小さな冊子が付録としてついているんですが、その中に小川洋子さんの文章が載っていますので、今回はそれを紹介します。

題して「村上春樹とカーヴァーの瞳」です。

個人全集の付録に、その作家や作品についてではなく、翻訳者について書くというのは、もしかしたら常識外れなことなのかもしれない。しかし、『「レイモンド・カーヴァー全集 村上春樹訳』においてなら、それは許されるだろうと思う。
多くの人が村上春樹を通して初めてカーヴァーの名前を知り、彼が訳すのなら読んでみようか、という気になって本を手にしたに違いない。もちろん、わたしもそんな読み手の一人だ。


これはもう、全く同感です。で、案の定大正解でして、そこからカーヴァーにハマったわけです。

翻訳者に惹かれて外国の小説を読むなどという経験は、今までなかった。

そうですか? ボクなんて、まんま翻訳者で選んでしまうことがよくありますので、このあたりは若干違いますね。

カーヴァーだけではない。ジョン・アーヴィングも、C・D・B・ブライアンも、リチャード・ブローティガンも、そしてスコット・フィッツジェラルドも、村上春樹が注目している作家だからこそ、わたしも読んだのだ。そしていつも、期待は裏切られなかった。彼らはみんな、わたしにとっても、大切な作家になった。

これはまあ、概ね同じです。とりわけ、アーヴィングとブローティガンは全く同意します(だし、ブローティガンは絶対的に藤本和子訳に限りますけどね)。

もし、村上春樹という人がいなかったら、わたしは『ささやかだけれど、役にたつこと』も『西瓜糖の日々』も知らずにいたのだなあと思うと、改めてそのことの重大さに驚いてしまう。限られた人生の中で、本当に上質で真摯で真実の小説に出会わせてくれたことに、感謝しないではいられない。

小川洋子さんの読書遍歴の中で、『西瓜糖の日々』は特権的なポジションにいるようですね。

『風の歌を聴け』で彼がデビューした翌年、わたしは岡山から上京して早稲田大学に入学した。十八になったばかりで、まだ小説など一つも書いたことがなく、それでも何かを書きたいという漠然とした思いだけは抱えていた。
その頃わたしは、小説を書くという作業を堅苦しく考えていた。表明したいもの、輪郭を示したいもの、たどり着きたい地点が、書き始める前から確かに自分の中にあって、それを言葉で置き換えていくことが、つまり小説を書くことなのだ。自分の中に、確かなものが見えてこない限り、何も書けないのだ。という具合に。
ところが、村上春樹はそんな窮屈な考えを、粉々にしてしまった。わたしは呪縛を解かれたような気分だった。
『風の歌を聴け』は、「分からない」という場所から生み出された物語だった。昔は何かが存在していたはずなのに、いつのまにかそれが消え去っている。その空白の中で、〝僕〟は「分からない」を繰り返す。消え去った何かの正体を見極めようとして、もがいたり、分かった振りをしてみせたりはしない。ただ静かにたたずんで、微かに残った気配をかぎながら、空白の密度を深めてゆくだけだ。
「分からない」場所からでも小説は書ける。今の自分にだって小説は書ける。そんな勇気を、彼から与えられた。
大学に入学してすぐ、わたしは現代文学会というサークルに入った。そこでは毎週、読書会が開かれていた。テキストに何を選ぶかは全くの自由。取り上げてもらいたい小説があれば、どんどん提案して構わなかった。ただ、一週間で読み切れる長さであること、それから、みんな貧乏学生だったので、文庫に入っている小説であること、その二つが条件だった。
ところが『風の歌を聴け』は文庫になるのが待ち切れず、単行本のままテキストに採用された。当時の大学生にとって、それだけ彼の出現は衝撃的だった。
読書会の日、わたしは佐々木マキ装画のその本を持って、午後六時に高田馬場のルノアールに行った。まだ誰も来ていなかった。あれこれと書き込みをしたページをめくりながら、ジュースを飲んだ。みんななかなか来てくれないので、また最初からそれを読み直した。とうとう全部読み終えて、八時近くになっても、誰も現われなかった。
部室の掲示板で、日にちと場所をちゃんと確認したつもりだったのに、わたしはどこかで間違いをおかしたらしい。その日の読書会で、わたしは誰とも話をすることができず、ただ一人きりでルノアールの椅子に腰掛けていただけだった。『風の歌を聴け』に満ちている空白感と、わたし自身を取り巻いている空白感が、重なり合ったように思えるひとときだった。
村上春樹の小説の中で一番好きなのは、 『午後の最後の芝生』だ。子猫たちをキャンプ・ファイアの「まき」みたいに積み上げるところや、丁寧に丁寧に芝生を刈る〝僕〟の仕事ぶりや、アル中気味のおばさんの言葉遣いや、女の子の部屋を観察する場面が好きだ。夏の陽射しの中で、淡々と芝生が刈られていって、ふと気がつくと、胸の深いところにきしみが残っている。それを消す方法を、誰も知らない。


うん、「午後の最後の芝生」はボクも大好きな短篇のひとつです。「不在の在」ってのを強く感じる作品でもありますね。



小説の方から読み手に向かい、いきり立って攻撃をしかけるようなことはせず、ただ、ざらり、とした感触だけを残す。二人の小説には、そんな共通点があるように思う。

カーヴァーの作品の中では、『収集』が一番いい。外側から突然にやってきた不条理と、無一文で妻に逃げられた男の間に漂う、不愉快と不気味さと奇妙さが、短いページの中に、きっちりと封じ込められている。決して噴出はしてこない。物語の内側でくすぶり続けるだけだ。
『書くことについて』というエッセイの中でカーヴァーは、
「作家というものはときにはぼうっと立ちすくんで何かに――それは夕日かもしれないし、あるいは古靴かもしれない――見とれることができるようでなくてはならないのだ。頭を空っぽにして、純粋な驚きに打たれて」
と言っている。もちろん写真でしか知らないのだけれど、カーヴァーの瞳にも村上春樹の瞳にも、その〝純粋な驚き〟が宿っているように見える。ちっぽけな一つの品物にひそんでいる物語を、すくい上げようとするひたむきさがにじんでいる。


以上です。

んで、つづきます。



   

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