デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ その23

 
今度は「聖テレサの書いた一行についての考察」です。

聖テレサが書いた文章の一行がここにあります。考えれば考えるほど、それは今日のこのような集いにふさわしいものに思えます。というわけで、わたしはそのセンテンスについて考えをめぐらせてみようと思います。それは最近出たテス・ギャラガーの詩集のエピグラフとして使われております。テスは私の親しい友人であり、伴侶であり、今日私とともにここに出席しております。彼女の詩集のエピグラフという文脈で、私はこの一行を考えているのです。
聖テレサという、三百七十三年前に生きていた傑出した女性は、このように述べています。「言葉とは行為を導くものです……言葉は魂に準備をさせ、用意を整えさせ、そしてそれを優しさへと動かすのです(“Words lead to deeds...they prepare the soul,make it ready,and move it to tenderness.”)
この思いは「まさにこのように表現されたからこそ」明晰さと美しさを湛えています。私はそのことを強調して申し上げたい。というのは時が移り、私たちが語ることと、私たちが行うこととのあいだに存在するはずの重要な関連性が、彼女の生きた時代のようには当然のこととして人々に認識されていない今の時代にあって、彼女の心情にはまた、私たちにはすんなりとなじめないような、異物にも似た何かがわずかに含まれているからです。「言葉が行為へと通じます……。それは魂(ソウル)に準備をさせ、用意を整えさせ、それを優しさ(テンダネス)へと動かすのです」
聖テレサが用いた言葉ひとつひとつには、また重みと信念をたっぷりと込めたそれらの用いられ方には、「いくぶんミステリアスな」という以上のものがあります――「神秘主義的な(ミステイカル)』と言ってしまいたいくらいです。まったくの話、それらは遥か以前の、より思索的であった時代のこだまのようにさえ感じられます。とりわけ「ソウル」という言葉がそうですね。この言葉は今ではもう教会の中か、あるいはたぶんレコード店の「ソウル」セクションでしかお目にかかれないものになってしまっています。
「テンダネス」も同様です。最近ではこの言葉もすっかり耳にしなくなりましたね。とくにこのように衆目の集まる、めでたい場所においては。考えてもみてください。この前いつあなたはこの言葉を朽ちにしたでしょう? あるいは誰かが口にするのを聞いたでしょう? これはさきほどの「ソウル」に負けず劣らず、供給が減ってしまった言葉ですね。
チェーホフの小説『六号室』に、モイセイカという実に見事に描かれた人物が登場します。




彼は病院の精神病棟の中に拘禁されているのですが、ちょっとしたテンダネスの行為を習慣にしています。チェーホフは書いています。「モイセイカは誰かの役に立つのが好きだ。彼は仲間に水を与え、寝た人には布団をかけてやる。彼らの一人一人に一コペイカずつ持ち帰ることを約束し、新しい帽子を作ってやることを約束する。左側の全身麻痺の隣人にはスプーンで食事を食べさせてやる」たとえテンダネスという言葉が使われなくても、私たちはこのような描写の細部に、その存在を感じ取ります。たとえチェーホフがそのあとに、モイセイカの行為に対して割引きをつけ加えていたとしてもです。彼は言います。「彼はこのような行為を、同情心や、あるいは人道的な思惑から行っているわけではない。それはグローモフという、彼の右側の隣人に無意識的に作用を受け、彼の真似をすることでもたらされたものだった」
刺激的な錬金術を用いて、チェーホフは言葉と行為とを化合し、私たちにテンダネスの起源と本質について、あらためて考えさせてくれます。それはいったいどこからやってくるのでしょう? ひとつの行為として、たとえ人道的な動機から切り離されたものであったとしても、それはなおかつ人の心(ハート)を動かすのでしょうか?
何の見返りも期待せず、あるいは自覚すらなく、心優しき行為を実行する孤立した一人の男のイメージは、たまたま遭遇した風変わりな美しさとして、私たちの前にとどまります。あるいは場合によってはそのイメージは、「あなたはどうなのか」というまなざしとともに、私たち自身の人生に反映してくるかもしれません。
『六号室』にはまたこんな場面もあります。心に不満を抱いている医師と、横柄な郵便局長という二人の登場人物が、何かの加減で突然人の魂について論争を始めます。郵便局長は医師より年上です。
「じゃあ、あなたは人間の魂の不滅性を信じてはおられんわけですな?』と郵便局長は突然問いかけます。
「信じてはおりませんとも、ミハイル・アヴェリヤーヌィチさん。そんなものを信じなくてはならない理由もありませんからね」
「私もまあそれを疑わんでもない」とミハイル・アヴェリヤーヌィチは認めます。「それでも、私は心の底でふと感じるんですよ。私は決して死んでしまったりはしないのだとね。『おい爺さん、もう死にどきだぞ』と誰かが言う。でも私は、自分の魂の中で小さな声がこう言うのが聞えるんですな。『そんなことを信じてはいけない。お前は死にはしないんだ』とね」
場面はそこで終わります。しかしその言葉は行為として残ります。「魂の中の小さな声」が生まれるのです。そしてまた私たちは、生きることや死ぬことについてのある概念のようなものを、おそらくは捨ててしまっていたはずなのに、たしかに細くはあるけれど簡単には引き下がらないひとつの信念に、気がつけば心を惹かれているのです。
私がここで述べたことはいずれ、数数週間あとか数ヵ月あとかわかりませんが、みなさんの頭の中から消えてしまうでしょうが、このような盛大な集いに出席したという感覚だけは、きっとあとあとまで残ることでしょう。これはみなさんの人生におけるひとつの素晴らしい時代が終わり、新しい時代が始まろうとしている刻み目としての集いです。そこで、みなさんがそれぞれの運命を追求するかたわら、この言葉をひとつ覚えておいていただきたいのです。それは、「正しく真実である言葉は、行為としてのパワーを持ち得る」ということです。
もうひとつ。公共の場においても個人の場においても、日常的用途からはじき出されて、今では絶滅の危機に瀕している「テンダネス」という言葉、これもちょっと頭にとどめておいていただきたいのです。とくに害にはならないはずです。それからもうひとつのべつの言葉。ソウル。なんなら、もしその方が馴染みやすいというのであれば、「精神(スピリット)」という言葉で置き換えてもらってもかまいません。そちらをも忘れないでいただきたいのです。あなたの口にする言葉、なす行為のスピリットに注意を払ってください。それこそが準備です。これ以上言葉は要りません。


カーヴァーのエッセイは以上です。でも、このシリーズは更につづきます。



   

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