デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ その21

 
前回約束したカーヴァーのエッセイを紹介します。
まずは『フレンドシップ』から……。

そう、この連中はめいっぱい楽しんでいる! 彼らはロンドンにいて、ナショナル・ポエトリー・センターを満員にした朗読会をさっき終えたところだ。しばらく前から、英国の新聞・雑誌に記事を書いている批評家や書評家は、彼らのことを「ダーティー・リアリストたち」と呼んできた。しかしフォードウルフとカーヴァーはそんなことには取り合わない。ほかのあれこれを笑い飛ばすのと同じように、それをジョークにしてしまう。彼らは自分たちが何かのグループの一員であるとは思っていない。
三人が友人同士であることはたしかだ。彼らの作品が時として同じような題材を扱っていることもたしかだ。多くの共通の知人がいるし、ときには同じ雑誌に作品が掲載されることもある。しかし彼らは自分たちがあるムーヴメントに属しているという風には、あるいはその先頭に立っているという風には考えない。彼らは友人同士であり、ともに楽しく時を過ごし、人生の良き面に目を向けようとする作家たちである。ものごとには運不運が作用するということを彼らは知っているし、自分たちが運に恵まれていたということも承知している。しかし彼らはまた世間一般の作家同様、うぬぼれも強く、幸運が訪れるたびに自分にはそれだけの資格があったんだとも考える。もっとも幸運が訪れるたびに我ながらびっくりしてしまうことも多いのだが。彼らはこれまでに何冊かの長篇小説、短篇小説集、詩集、中篇小説、エッセイ集、雑文集、シナリオ、書評などを著してきた。しかし彼らの作品、あるいはそのパーソナリティーはずいぶん違う。海風と塩水くらい違っている。そのような相違点こそが、共通点やら、あるいは定義することのできない何かほかのものとともに、彼らを友人同士として結びつけている。
彼らがロンドンにいて、楽しい時を送り、故郷をあとにしているのは(ウルフにとってのニューヨーク州シラキュース、フォードにとってのミシシッピ州コーホーマ、カーヴァーにとってのワシントン州ポート・エンジェルス)、彼ら三人の本が時をほとんど同じくして英国で出版されることになっているからだ。彼らの本はあまり似たところがない種類のものだが――少なくとも私にはそう思えるのだが――そこにもし共通したものがあるとすれば、それはそれらの作品がどれも傑出したものであり、世界に対して大きな意味を持っているということだ。私はそう信じている。そして私はもし仮に私たちがもう親友でなくなったとしても(ろくでもない仮定だが)、同じように考え続けるだろうと思う。
しかし三年前にロンドンで、小説朗読のあとで撮られたこの写真をもう一度眺めていると、私の心は動かされる。そして友情というのは永久不変のものだとふと信じ込んでしまいそうになる。実際、あるポイントまでは本当にそうなのだが。さて今、この写真の中にいる友人たちはみんなで顔を合わせて、愉快な時を送っている。彼らの頭にある唯一のシリアスな思いといえば、さっさとこの写真撮影の仕事を終え、どこかべつのところに行ってめいっぱい盛り上がろうということくらいだ。その夜の予定はもう立ててある。今という時を終えてしまいたくない。やがて日が暮れて、ああくたびれた、ベッドに入ってゆっくり身体を休めて、あるいはそのままバタンぐう……なんてことを心待ちにしてはいない。実のところ彼らはずいぶん長いあいだ顔を合わせていなかったのだ。彼らは自分たち三人だけで一緒にいて肩肘はらずにいられることを――簡単に言えば、友だちであることを――心から楽しんでいる。こういう時間がずっと続けばいいのになと思っている。この先ずっと。実際に続くことだろう。前にも言ったように、あるポイントまでは。
そのポイントとは死である。この写真を見る限りでは、死なんてものは彼らの頭からはもっともかけ離れた場所にある。しかしうちに帰って一人になれば、それはそんなにかけ離れた場所にある物事ではなくなる。ロンドンで我々がやっていたように、みんなで集まって陽気に騒いでいるときとは話は違ってくる。物事は少しずつ終息に向かう。物事には間違いなく終わりがある。人はいつかは死ぬ。時がくれば、この写真に写った三人のうちの二人は、三人目の友だちの遺体を眺めることになるだろう――まさに遺された体だ。そう考えるのは辛いし、恐ろしい。しかしあなたが彼らを看取ることを避けるには、あとは彼らがあなたを看取るしかない。

友情について考えるとき、私はどうしてもこのような暗い側面に思いを馳せないわけにはいかない。それは、少なくともあるひとつの点においては、結婚――それはもうひとつの夢の共有だ――に似ている。結婚をする人は結婚の意味を信じなくてはならないし、それを信頼しなくてはならない。それが永遠に続くものだと確信しなくてはならない。
配偶者や恋人について言えることが、友人についても言える。あなたはその相手に初めて会ったときのことをいつまでも覚えている。私はダラスのヒルトン・ホテルのロビーでリチャード・フォードに紹介された。一ダースほどの作家や詩人がそのホテルに食事付きで宿泊していた。我々の共通の知人である詩人のマイケル・ライアンが、私たちをサザン・メソジスト大学で行われた文芸フェスティヴァルに招待してくれたのだ。この世界ではみんなつながっている。しかしその当日サンフランシスコ空港から飛行機に実際乗り込むまで、自分がほんとうにダラスくんだりまで行くだけの気力を持っているものかどうか、まったく自信が持てなかった。六年間にわたって破滅的な飲酒生活を続けて、数ヵ月前にやっとアルコールを断ったばかりだった。それからずっと穴に閉じこもり、外に顔を出していなかった。素面だったが、手がぶるぶる震えた。
それに比べてフォードは自信に満ちていた。立ち居振る舞いや、身なりや、しゃべり方には気品があった。落ち着きがあり、上品で、南部的だった。私は彼に参ってしまったのだと思う。あるいは彼みたいになりたいと望みさえしたかもしれない。というのは彼は明らかに、私が持っていないものをすべて備えていたからだ。それはそれとして、私は彼の長篇小説『ピース・オブ・マイ・ハート』を読み終えたばかりだった。私はその本がとても気に入ったし、その感想をじかに伝えることができて嬉しかった。彼の方も私の短篇小説を熱っぽく賞賛してくれた。私たちはもっと話を続けたかったのだが、そろそろお開きという時間になっていた。私たちは席を立たなくてはならなかった。私たちはあらためて握手をした。しかし翌朝早く、私たちはホテルの食堂でばったり顔を合わせ、同じテーブルで食事をとることになった。記憶によれば、リチャードはビスケットとカントリー・ハムを注文した。グリッツを頼み、サイドにグレイヴィーをとった。彼はウェイトレスに向かって「イエス、マム」「ノー、マム」「サンキュー、マム」とか言った。そういうしゃべり方が私には気に入った。彼は私にグリッツを味見させてくれた。私たちは朝食のあいだずっと、お互いのことを語り合った。別れるときには、よく言われることだが、ずっと昔からお互いをよく知っていたような気分だった。
その後の四日か五日のあいだ、私たちは時間があれば二人で話をした。最後の日に別れの挨拶をしたとき、彼はいつか自分の家を訪ねてきてほしいと言った。書けはプリンストンに奥さんと二人で住んでいた。私がプリンストンに行くような機会は、ごく控えめに見積もっても、まずなさそうだったけれど、ありがとう、うかがえるのを楽しみにしているとだけ言っておいた。しかし私は自分が友だちを見つけることができたと感じた。それもとても良い友人をだ。君が相手のために何か特別なことをしてもいいと思えるような種類の友人だ。


そういう友人には自分にも覚えがあります。
リアルな友人もそうですが、初めはネット上でのやり取りだったのが、実際にお逢いして、更に大切に思えるようになった方たちがいるんですよね(思い当たる方たちは挙手をよろしく♪)。

この章、次回に続きます。



   

~ Comment ~

おこがましいですが、 

えーと、「思い当たる方たち」に該当してるかは
わかりませんが
片手だけじゃなく思い切り両手を挙げてます。
バンザーイ!

正しいです。 

うめさん、こんにちは^^

>えーと、「思い当たる方たち」に該当してるかは
わかりませんが
片手だけじゃなく思い切り両手を挙げてます。
バンザーイ!

もちろん、もちろん、該当しておりますとも!
いつもありがとうございます♪

NoTitle 

また、逢えるといいですね♡

まだ逢ったことがない人とも、逢いたいです。
そのためにも、がんばりましょう!


頑張りましょう! 

ゆりさん、こんばんは^^

>また、逢えるといいですね♡

そうですね。

>まだ逢ったことがない人とも、逢いたいです。

ほんとに。

>そのためにも、がんばりましょう!

そうです、そうです、その意気です!
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