デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ その19

 
ブローティガンの話題が出ちゃ黙っていられません。問題のカーヴァーの書評も紹介しましょう。

「ブローティガンは狼男のきいちごと猫メロンを供する」
          リチャード・ブローティガン著『東京モンタナ急行』
   ニューヨーク、デラコート・プレス/シーモア・ローレンス社、一九八〇年


この不揃いなコレクションに収められた小散文――これを小説と呼ぶことはどのような定義に従ってもむずかしい――は短いものは数行、長いものは数ページという規模のものだ。これらの文章の舞台はモンタナ州リビングストン、東京、サンフランシスコ、およびその近辺である。とくに意図的な順序がそこにあるわけではない。どれがどこに行ってもおかしくないし、それによって何かがちらっとでも変わるわけではない。私はいちばん最初に収められたいちばん長い作品が好きだ。タイトルは『ジョセフ・フランクルの陸路の旅、そして妻アントニアのネブラスカ州クリートにおける永劫の眠り』である。そのほかの作品のタイトルも少し並べてみよう。『アボットとコステロの墓場の宇宙実験室』『東京で走っていた五個のアイスクリーム・コーン』『モンタナの交通が魔法にかかった』『サン・フランシスコ蛇物語』『狼男のきいちご』『麝香草考および葬儀社』『モンタナの二台の加湿器』『390枚のクリスマスツリーをどうする?』『猫メロン』『鶏物語』『「テイスティ・フリーズ」の電燈』だいたいの感じはおわかりいただけるだろうか?
こういうものが百三十一篇、ここに収録されている。そのうちのあるものはとても良い出来だ。小さな驚きがあなたの両手の中で炸裂する。あるものはまずまずの出来だ。好みの問題というところ。ほかのものは――これが数としてはいささか多すぎると私は思うのだが――ただの穴埋め品だ。これらの穴埋め用の作品群を前に、あなたは首をひねってしまうことだろう。つまりあなたの頭にはこういう疑問が浮かぶだろうということだ。「おいおい、ここには編集者はいなかったのかい?」と。この著者を何よりも愛する誰かがまわりにはいなかったのか? そして彼の方も好意を持ち、信頼を寄せる誰かがいなかったのか? この雑多な寄せ集めの中でどれが良くて(あるものは見事で)、どれがライト・ウェイトで、どれがただ単に無意味であり、それは捨てるか、あるいは下書きのノートブックの中に残しておくべきものだ、というようなアドバイスをしてくれる人はいなかったのか?
更に望むなら、もっと多くの作品の中から、収録作品が選ばれればよかったのに。全部で二百四十篇くらいの数の作品があればよかったのに。あるいはクリスマス・ツリーの写真の数と同じ三百九十でもいい。そしてそれから(更に望むわけだが)良き友人であり編集者である人物が著者の隣に座り、二人ですべての作品に目を通し、ひとつひとつを詩を鑑賞するときのようにじっくりと眺め、一冊の本を作るためにどれだけの数の作品が必要であるかを考える。この架空の編集者=友人はときとして著者に対して厳しい態度をとってくれればいいのにと望む。「おいおいリチャード! これは実に見事じゃないか。でもこいつはただの指の運動だね。洗濯物リストを書き付けるのと変わりないよ。君は良い本を出したいんだろう? だったらこいつは外そう。でもこれは悪くない。こいつはとっておく価値がある」こういう具合に二百四十なり三百九十の数の作品の中から、あるいはもともとの百三十一だっていいのだけれど、九十なり百なりが選ばれて、一冊の本になる。そうすれば納得できる本になったことだろう。驚きと痛快さに満ちた本になっただろう。でも実際には我々は、あまりに多くの数のささやかな夢想と、ジェントルレイドバックした温かい観想を手にすることになった。著者はそのようなものを祝福として授かり、読者と分かち合うべくとっておいたわけだ。しかしそれらに、それらのすべてに分かち合うだけの必要があるとは、私には思えない。
あるいは読者にとってそんなことはべつにどうでもいいのかもしれない。それともただ単に、我々が彼の周波数に合っているか、合っていないかという問題なのかもしれない。もし合っていなければ、そいつは残念、お気の毒さまということになる。逆にもし我々の頭の存在位置が、ブローティガンの頭の存在位置と合致していれば、「なんでもあり」、すべてはオーケーということだろうか。それでいいじゃん、ということだろうか。しかし私はこう信じないわけにはいかないのだが――別に信じる必要なんてなくて、ただそういう感触を持っているだけだが――ブローティガンだってやはり、文句のつけようのない優れた本を書きたいと望んでいるはずだ。ただ浅い面白味を求めている若者層だけではなく、成人男女が納得して読める本を書きたいと望んでいるはずだ。
というわけで、この本を読む読まないはあなたの自由だ。この本を読んだところで、生きていく役に立つわけではないが、かといって損なわれることもない。それはものごとや人々を見るあなたの視線を変えたりはしないし、あなたの精神生活にどのようなサイズのへこみを作ることもない。意識にジェントルに収まる本だ。二百五十八ページにわたる夢想とインプレッション、きらっとした小さな輝き、そして「プラネット・アース」に生きる著者の人生に触れた、過去から現在に至るまでのものごと。
これはリチャード・ブローティガンによって書かれた『東京モンタナ急行』という本である。どのように好意的に見ても、これを彼の最高傑作と呼ぶことはできない。でもそれは本人もわかっているはずだ。


たしかに「なるほど、なるほど……」と言うしかない論評です。
けれど、どうしても「でも……」と続けたくなっちゃうんですよね。



   

~ Comment ~

おもしろい 

ブローティガンの散文集のタイトルがおもしろすぎるなあと思いながら、カーヴァーの意見を読んでいると、それがまたなんだかよくわからないおかしみがあるのですが・・・。(カーヴァーのスタイルから見ると、とてもまっとうな意見なんだろうけど、そうするとブローティガンの良さをどこまで汲み取っているかってことなんだろうな、と知識もないのに思いました。)
こういうことって、ほんとによくあることなんだなあ、って感じるばかりです。どこまで人って許容できるんだろか。でも、コウさんたちのように、カーヴァーもブローティガンも好きだってひともたくさんいらっしゃいますしね!
注)『東京モンタナ急行』は読んだことがないので、この文章からの印象を軽いノリで書いてしまってます)

おもしろいです。 

まおまおさん、おはようございます^^

>ブローティガンの散文集のタイトルがおもしろすぎるなあと思いながら、カーヴァーの意見を読んでいると、それがまたなんだかよくわからないおかしみがあるのですが・・・。(カーヴァーのスタイルから見ると、とてもまっとうな意見なんだろうけど、そうするとブローティガンの良さをどこまで汲み取っているかってことなんだろうな、と知識もないのに思いました。)

>こういうことって、ほんとによくあることなんだなあ、って感じるばかりです。どこまで人って許容できるんだろか。

たぶんカーヴァーも本当のところブローティガンが好きなんだと思います(まず間違いなくシンパシーを抱いていたんじゃないかな?)
だからこそ、歯痒いところもあったんでしょうね。

>でも、コウさんたちのように、カーヴァーもブローティガンも好きだってひともたくさんいらっしゃいますしね!

けっこう同じ匂いがするんだよね、この二人って。

>注)『東京モンタナ急行』は読んだことがないので、この文章からの印象を軽いノリで書いてしまってます)

きっと実際に読んでも、そんなに変わらないんじゃないかと思います(でも、機会があれば是非読んで欲しい作品です)。
管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

~ Trackback ~

トラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)