デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ その15

 
前回『英雄を謳うまい』を紐解きまして、しばし読み入ったものですから、そこからいくつか紹介したくなりました。

まずは巻末に置かれた村上春樹さんの解題から……。

この『英雄を謳うまい』は、レイモンド・カーヴァー全集のにおけるいわゆる「落穂拾い」的な性格をもっている。ここには、現行の本に収められていない初期の習作短篇小説があり、書きかけの長篇小説の冒頭の部分(連載の一回目)があり、これもまた未収録の詩があり、いくつかの本のために書かれた序文や、エッセイや、書評がある。一般の読者にとっては、読み物自体としてそれほど意味がないという種類のものも、中にはあるいは見受けられるかもしれないが、個人全集という観点からみれば、あるいはレイモンド・カーヴァーという一人の作家に対して深い興味をもっている読者や研究者にとっては、これは必要にして欠かすことのできない刊である。小説家・詩人としての「フォーマルな」カーヴァーを情報的に補佐し、作品間の隙間を――ある意味では人間的に――埋めるための材料が、ここにはぎっしりと収められているからである。こういう刊がひとつないことには、個人全集というものの魅力は半減してしまうはずだ。(中略)

初期の習作フィクション群に関していえば、おそらく多くの読者はこれらを多かれ少なかれ、不安定な若書きの作品としてお感じになるのではないだろうか。訳者(村上)もやはりおおむね同様の感想を抱くことになる。これらの作品の中では若き日のカーヴァー(まだ学生の身分である)は、自分がフィクションの書き手として何をすればいいのかがまだよくわかっていない。自分が書くべき小説のイメージが、明らかにまだうまくつかめていない。しかし戸惑い、試行錯誤しながらもそこには、何があろうと小説を書く作業にしがみついていこうという意志があり、文章の力を信じる思いがあり、それらの信念が彼を一歩ずつ着実に前に押しやっているようだ。
一般的なことを言えば、人が小説を書く上においてもっとも大事なことは、「自分の物語を書く」ことである。べつのことばでいえば、自分は自分であって他人ではないという事実を、物語のレベルで語ることである。もちろん言うのは易しく、それを実行するのはかなり困難だ。自分と外界がどのように結びつき、どのように離れているかという入り組んだ細い筋目をきっちりと見極めなくてはならないし、その筋目を文章化・物語化するテクニックを身につけなくてはならないからだ。そのどちらかの(あるいは両方の)作業に目に見える誤差が生じると、プロの物書きとしてやっていくことは大変むずかしくなる。
この初期習作を書いている当時のレイモンド・カーヴァーは、文章的テクニックの習得や、作家としてのスタイルの確立よりも、むしろ(それ以前の問題として)社会における自らの人間としての居場所の模索に苦慮しているように僕には感じられる。その結果これらの作品はきわめてナイーブで、無防備で、様々な外圧に裸でさらされているという印象を読者に与えることになる。本書のこの章に収められたいくつかの作品を読んで我々はおそらくこう感じることになる――この作品の作者はとても誠実に努力しているし、文章の筋だってかなりいい。しかし彼は自分が手にしている道具(インストウルメント)をどのように扱えばいいのかがまだよくわかっていないのだ、と。
これらの初期のフィクション群が、レイモンド・カーヴァーの愛読者にとって意味を持つとすれば(もちろん持つはずだ)、それはひとつにはそこにある「ナイーブで、無防備で、様々な外圧に裸でさらされている」という感覚のためではあるまいか。なぜならそれは、より完成された後期のレイモンド・カーヴァーの作品にまで持ち越されている作者固有の感覚であり、彼の世界観のひとつの基調であるからだ。言い換えるなら、それらの感覚は一過性の欠点として解消されたのではなく、より「高められた」ということになる。それは時間をかけてカーヴァーという人の中で昇華され、文学的により意識化、洗練化、普遍化されていったわけだ。今回これらの作品をじっくりと読み返してみて、あらためてそういう印象を受けた。
『髪の毛』という短い小説のある種の不条理な「いらいら」感は、それ以後のカーヴァーの物語のひとつの原型をなすものである。そのいらいら感はどこかに出口を求めている。物語としての出口だ。しかしこの作品の中でそのいらいら感は、まだ出口をみつけることができず、ただのいらいら感のままで終わってしまう。そこには予感のようなものがあるのだが、その予感を物語の内側に引き込んでいくだけの力は、まだ作者には備わっていない。しかし僕らはそこに「何かがある」ということをかなりはっきりと感じとることができる。そしてそれがいつかふくらみ、発展していくはずのものだという実感を得ることができる。
『アフィシオナード』はミステリアスな物語だ。話は乾いた緊迫感とともに前に進んでいく。シンボリックであり、神話的であり、そこには確かな空気の手触りのようなものがある。ただし全体として見れば、残寝ながら物語には必然性が乏しく、焦点ももうひとつはっきりしない。書くという行為が、作者を取りまく現実との出し入れを有効に行えていない。
『ポセイドンと仲間』においてもやはり、神話性が物語のひとつの引用装置として取り上げられている。しかしその取り込み方はあまりにも唐突であり、「いささかしんどい」というのが読後の正直な感想である。おかしみよりは独りよがりな地点に音もなく吸い込まれてしまう。もっともカーヴァーはこういった過去からの「引用」がけっこう好きなようで、作家として成功してからも、そのような象徴的な道具だてはしばしば詩作の際に使われている。そういう意味では、小説と詩における題材の住み分けは、彼にとって大事な作業であったのだろう。
ここに収められた初期短篇小説はほとんど一九六三年から一九六四年にかけて大学出版社の文芸誌に掲載されたものだが、この『鮮やかに赤いりんご』だけは少し時間があいて、一九六七年に発表されている。最近流行の用語でいえば「dysfunction(機能不全)」一家の素っ頓狂な物語で、狙いとしてはそれほど悪くないと思うのだが(つまりもっとうまく書けばけっこう面白い話になったのではないかと推測されるのだが)、ユーモアがいかにも上滑りで、結果的には「笑いをとれない喜劇」みたいになっている。カーヴァーのユーモアというのはどちらかというと「巧まざるおかしみ」に近いもので、一般的に言ってそれが意識されていないときに最高の効果を発揮するようだ。しかし彼としてはいろんな技法を実際にためしてみたかったのだろう。それはもちろん悪くないのだが、この段階で彼に必要とされていたのは間違いなく、何が良くて何がいけないのかをはっきりと指摘することのできる、力のあるアドヴァイザーか編集者である。
この初期フィクション群の中でひとつ注目すべき作品があるとすれば、それは疑いの余地なく『怒りの季節』だ。近親相姦や殺人といった道具だてはたしかに大仰であり、あまりにもドラマ性が強すぎる。そのようなたっぷりとしたアンコを支えるだけの皮が、残念ながらこの物語には備わっていない。アンコが多すぎて、ところどころで皮がやぶけてしまっていて、それで商品としての価値は損なわれている。そのへんの見極めが作者にはまだできなかったのだろう。よく書けてはいるのだが(処女作でここまで書けるというのはさすがだ)、これを一級の作品にするためにはおそらく根本的な見直しが必要とされる。
しかしそこに描かれている風景や心情は、明らかにレイモンド・カーヴァー独自のものだ。的確な情景描写、全体を貫く暗い予感的なトーン、ある種の物理的な実感、そのような様々な要素がここには勢揃いしている。そういう意味ではこの『怒りの季節』はきわめて興味深い作品である。ただし文章は今の時点から見ればいくぶんまわりくどく、余計なところも多く、中期以降のカーヴァーの文章とはずいぶん趣を異にしている。しかし逆にいえばこの作品を読むことによって、我々はこれ以降のカーヴァーがどれくらい有効に文章をクリスプなものにし、その単純化によって文学的な奥行きと深みを獲得するに至ったかという事実を、あらためて実感させられるわけだ。


つづきます。



   

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