デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ その8

 
今回もカーヴァーの発言を紹介します。

私の記憶力は貧弱なものである。つまり私は、自分の人生に起こった多くの出来事を忘れてしまっているということである。これはまことに有り難いことではあるのだが、しかし私には全然説明できなかったり、あるいは思い出すことのできないいくつかの長い期間がある。私の住んでいた町や都市のこと、知っていた人の名前、人々そのもの。それは大きな空白である。しかし私はいくつかの物事を記憶している。いくつかのささやかな物事――誰がどんな口調で何を言ったか、そしてまた、誰かの激しい、あるいは声をひそめた、神経質な笑い声。ある情景。誰かの顔に浮かんだ悲しみや当惑の表情。そして私はいくつかのドラマティックな出来事を思い出すことができる。誰かがナイフを手に持って、怒りに燃えた目で私の方に向き直ったこと。或いは誰かをおどしつける私自身の声。誰かがドアを叩き破るのを見たこと。あるいは階段から転げ落ちるのを見たこと。そういうドラマティックないくつかの記憶を、私は必要に応じて思い出すことができる。でも私にはそのときの会話の全部をそっくりそのまま、一言一句違わずにジェスチャーやニュアンスをも添えて、ここに呼び起せるような種類の記憶力は持ちあわせていない。あるいはまた、これまでに自分が暮らしたどんな部屋でもいいけれど、そこにどのような家具があったかなんてまったく覚えてはいない。ましてや家全体の家具となると、完全にお手上げである。あるいは競馬場には具体的にどんなものがあったというようなことすら、私にはまるで思い出せない。私に思い出せるのは、そう、観客席とか、馬券窓口とか、場内中継テレビのスクリーンとか、人込みとか、その程度だ。そしてざわめき。私は小説の中の会話を自分で作り上げる。私は人々のまわりにある家具とか、物体とかを、必要があれば小説の中に差し入れる。たぶんそのせいで、往々にして私の小説は飾りがなくて、寒々しいと言われ、あるいはまた「ミニマリスト」的とまで言われてきたのかもしれない。でもそれはあるいは、ただ単に必要性と便宜性とが実際的な折り合いをつけたということに過ぎないのかもしれない。そしてその折り合いこそが、私が今書いているような種類の小説を、今書いているような方法で書くようにさせたものなのかもしれない。
言うまでもないことだが、私の書いた小説はどれも本当に起こったことではない。私は自伝を書いているわけではないのだ。でもそれらの大抵のものには、それはほんのちょっとしたことかもしれないけれど、何かの実際の出来事やら状況やらへの類似性が認められる。しかし私がの物語の状況に関連して、そのまわりにあった物体なり家具なりのことを思い出そうとするとき(そこにはどんな花があったか、だいたい花なんかあったのか、それは匂いを放っていたのか、エトセトラ)、私はしばしば途方に暮れることになる。そんなわけで、私は話を進めるためにはその手のことを適当にでっちあげなくてはならない。その物語に出てくる人々は、かくのごとき言葉が口にされたあと、どんなことを言いあうか、そのときにどんなことをするか。そしてそのあと彼らの身にどんなことが起るのか。私は彼らがお互いに向かって言ったことを作り上げる。しかしそこには、その会話の中には、実際にそこで口にされた一言や、あるいはセンテンスのひとつやふたつは(それは私がいつか、何かの折りに耳にしたことのあるものだ)混じっているかもしれない。そのセンテンスこそが、あるいは私の小説の出発点であるということだってあるかもしれない。

ヘンリー・ミラーは四十代のころに『北回帰線』(それはたまたま私の愛読書でもある)を執筆していたのだが、彼はそのときに他人の部屋で必死になってそれを書こうとしていたときのことについて語っている。彼はそこではいつなんどき仕事を中断させられるか予測もつかなかった。というのは、彼が座っていた椅子は、次の瞬間にはお尻の下から持っていかれるかもしれなかったからだ。かなり最近になるまで、私の人生においてもそのような状況がずっと続いていた。私の記憶している限りにおいては、十代のころからずっと、私は常に、自分の座っている椅子が誰かに持っていかれやしないかといつもひやひやしながら暮らしていた。何年ものあいだ、私と私の妻とは、屋根の下に住み、テーブルの上にミルクとパンを並べるために、ほとんどすれちがい同然の忙しい生活を送らなくてはならなかった。私たちには金がなかったし、目に見えるような、つまりどこかに売り込めるような特別な職業的技能も持たなかった。そのおかげで、私たちはアルバイト同然の仕事をやりながら、やっとこさ生きていくしか道がなかったのだ。そして私たちには、私たちは二人ともそれを喉から手が出るほど求めていたのだが、教育もなかった。教育は自分たちにチャンスを与えてくれるだろうと、私たちは信じていた。それは私たちにまともな職に就く機会を与えてくれるだろう、そしてそれは、我々が自分たちや子供たちのために求めているまっとうな種類の生活を与えてくれるかもしれないのだ。私と妻とは大きな夢を持っていた。自分たちは頭だって下げられる、懸命に働ける、やろうと心に決めたことならどんなことだってやれると我々は思っていた。でも我々は考え違いをしていた。
私の人生と私の書くものを、直接的にであれ間接的にであれ、いちばん大きく左右した影響力といえば、それはやはり私の二人の子供であったと言わなくてはならない。彼らが生まれたのは、私が二十歳になる前のことだった。そして一緒の屋根の下に暮らした期間を通じて、その始めから終わりまで(それは全部で十九年間に及んだ)、彼らのずしりと重く、そして往々にして悪意に満ちた影響力が及ばない場所というのは、私の生活の中には一寸たりとも存在しなかった。
あるエッセイの中でフラナリー・オコナーはこう書いている。作家は二十歳を過ぎてしまったら、あとはその身に何が起ろうとたいして意味はない、小説を作りだす材料の多くは、それ以前に既に起こってしまっているのだ、十分すぎる以上に、と彼女は言っている。そこにはその作家が一生かけても書ききれないくらいの十分な材料がつまっているのだ、と。これは私の場合にはあてはまらない。今私を執筆に駆り立てる「材料」の大半は、二十歳を過ぎてから私の身に起こったことである。私は子供が生まれる前の自分の人生について、本当にろくに覚えていないのだ。私は二十歳になり、結婚し、父親になる以前に、自分の人生に何かたいしたことが起ったとはどうしても思えないのだ。そのあとで、やっといろんなことが起こり始めたのだ。


スティーヴン・キングにも重なるようなエピソードですね。なかなか身につまされるような実話です。

この章つづきます。



   

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