デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ その7

 
今度は「長めの短篇小説について」という一文です。

短篇小説を読んだ後で思うことはこうだ。「何が私の頭の中に残っているだろう? 私はこの小説の中から何を記憶している〝べき〟なのだろう?」と。これは第一級のストーリーテリングの条件の一つであるはずだと私は思う。
ヴォイスは、設定は、人物と細部は、こちらの記憶に残るようなかたちで、あるいは更に望むならば、消そうとしても消えないようなかたちで、そこに展開しているだろうか?
ユーモアがあるかないかも大きな基準である。ユーモアと言っても、声を出してはははと笑うようなものだけを意味しているのではない。もちろんそういう類のものだって一向にかまわない。腹の底から湧き上がってくる笑いは、私たちの世界をぱっと明るくしてくれる。しかしここで私が言っているのは、たとえば若い人々に見受けられる「不遜さ」のことだ。いわゆる大人の世界の深刻さと接触したとたん、ある特別な種類の軽み、あるいは「はしゃぎ」へと結びついていくような「不遜さ」のことだ。
優れた作品を再読に耐えるものにしている要因のひとつは、行動と意味とのあいだに目に見えない回路ができているということだ(※ 例にあげている作品のあらましはこうだ――語り手の若い男性の姉が二回目の結婚式をあげる。今回の相手はマフィアのメンバーである)。
私が今取り上げている作品においては、新婦である姉がいかに「生気なく」見えるかに語り手が気づく場面で、そのような瞬間のひとつが訪れる。姉の前夫はそこで何とか彼女の気持ちを盛り上げようとする。そして彼を通じて、作者は隣で行われている葬儀の情景にうまく言葉の橋をかける。「本番の前に紅をぬってあげる」と前夫は言う。「僕がうまく紅をぬってあげるから」このような織物の糸の絡み具合に気づくのは、本を読むことの喜びのひとつだ。
優れた作家たちは、ジャズピアニストのセシルテイラーが述べているように、「垂直方向に向けてだけではなく、水平方向に向けても」仕事をする。すべては本能に導かれて、ごく自然に。この小説のヴォイスはどれほどの説得力を持っているだろう? これも大切な評価基準である。おおかたの読者と同じく、私は泣き言や、過度に自己耽溺的な代物からはさっさと逃げ出す。したり顔の偉そうなのも苦手だ。そんなものに時間を費やしたくない。
そこでは何かが大きな分かれ目に立っていなくてはならない。ある一行から次の一行へと歩を運んでいく大事な何かがなくてはならない。
しかしそこから生じる帰結をどう伝えるかということになると、私はチェーホフの小説が見せてくれるようなさらりとしたタッチを好む。
今回の作品における中心的なジレンマは実は、語り手のお姉さんがろくでもない男と結婚するということにではなく、彼が幼いときにとても近しく感じていた誰か――「君が何かを口にしたとき、それが何を意味するのか常に正確に理解してくれる」誰か――としての姉がどこかに消えようとしているという感覚にある。
またこの青年は、更に深いジレンマに巻き込まれる。彼は突然父親の敗退を垣間見て、その結果息子は父親の苦難を、その切羽詰まった瞬間に、わが身にしっかり引き受けることになる。「僕は〝父だった〟。僕は父であり父の人生が僕の身に起こっていた」。

私が評したそれぞれの作品においては、おおむね何かの喪失が話の中心になっている。それらの喪失はいくつかのシーンの中で明確なかたちにされ、心を動かされるものになっている。それぞれの作品の中で、語り手は何かを強く希求している。べつの言い方をすれば、私が取り上げている小説群は、すなわち「書かれなくてはならなかった」小説ということになる。


たしかこの文章は、カーヴァーが関わっていたワークショップで参加者の作品を読んだ上での論評だったと思います(過去にメモっていたものを元にしています)。

それにしても「書かれなくてはならなかった小説という言葉は重いですね。それだけ切実なものが必要だということですよね。自戒しましょう。

つづきます。



   

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