デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ その5

 
今度は1987年のインタビューを紹介します。インタビュアーはマイケル・シュマッハーです(もちろん、あの元F1ドライバーではありません――どうやら駆け出しの新人作家のようですね)。

――あなたの編纂した『ベスト・アメリカン・ショート・ストーリーズ1986』に寄せた序文の中で、テクニックについて語られています。そして短篇小説にとって重要であるとあなたが考える五つの要素をあげています。選択、葛藤、ドラマ、つながり、そして話術です。作品を書き始める前に、それらの要素はあなたの頭の中にきちんと仕分けされているわけですか?

ノー。私は自然な流れに従って小説を書き始める。ほとんどの場合、詩や短篇を書き始めたとき、それがどのような場所に向かっているのか、実際にそこに着いてみるまでは私にはわからない。書いている最中は、行き先不明の状態なんだ。フラナリー・オコナーは『短篇小説を書く』というエッセイの中で、同じことを言っている。短篇小説を書き始めるとき、それがどんな結末を迎えることになるのか、自分にもぜんぜんわからないんだって。ヘミングウェイが短いエッセイを書いていて『マエストロへのモノローグ』という題のものなんだが、その中で誰かが彼に質問する。あなたは短篇小説を書くとき、その結末を知っているのかと。そんなことはまったくわからない、と彼は答えている。自分はただ書くだけで、書いているうちにシチュエーションが勝手に進行していって自然にほどけて見えてくるんだ、と。私は短篇小説を書くときには、どのようなプログラムも用意しない。ドラマがストーリーの中に入っていって、つながりと選択が自然に現れてくる。
冒頭の一行を手にしたら、残りの全てはその一行から放射されるように生まれていくんだ。


――あなたの小説を読んでいると、非常にしばしば、こう感じることがあります。何かとても重要なことが、その物語が始まる直前に既に起こってしまったのだ、という風に。あるいは、その物語が終わった直後に起ころうとしているのだと。
あなたの小説が扱っているのは、ヘミングウェイがそうしたのと同じように、氷山の一角に過ぎない。それがうまく機能したとき、作品は見事なものになります。
しかし数多くの駆け出しの作家には、なかなかその辺がうまく処理できない。ちゃんと書かなくても、読者は状況の奥の部分をうまく察してくれるだろうという、割に勝手な思いこみが往々にしてあります。そこには何か大事なコツのようなものがあるのでしょうか?

そうだね。君は必要な情報を読者から奪っておくことはできない。たとえば読者が登場人物のあるものに適当な顔だちを与えてくれるだろう、と期待することはできる。だから登場人物の目の色なんかをいちいち細かく描写しなくちゃいけない、というわけじゃない。物語自体に関して言えば、読者の側にある程度の知識があるという前提で書くしかない。このあたりのことは読者が適当に埋めてくれるだろう、とかね。
しかしながら、登場人物に感情移入することを可能にするための情報を充分に与えないで、読者を中途半端な状態に置き去りにするようなことをしてはならない。そこで何かが持ち上がっているかを、曖昧なままに放置しちゃいけないんだ。
私が興味を持つのは、我々がいかに生き、どのようにふるまい、自分のなした行為の結果にどのように向き合っていくか、それをきちんと見届けるような詩であり小説なんだ。私の書く小説のほとんどは、ドラマ的な葛藤の弧の、かなり終結に近いところから開始されている。それ以前に何が起こったのか、細部を描くことはあまりない。行為の振幅がおおむね終了したところから話を始めるんだ。


――あなたの小説はクライシス・ポイントからずばっと開始される、ということですね。

そういうことになると思う。それが私のやり方であり、他のやり方はできない。私はたぶん我慢が足りないんだろうね。しかしそこには微妙な一線がある。君の言うところの「大事なコツ」のようなものかもしれない。読者に十分な情報を与えなくてはならないのだが、必要以上に与えたくはない。私は読者を退屈させたくはないし、自分自身をも退屈させたくはない。

――カート・ヴォネガットはこんなことを言っています。短篇小説作家は、作品を書き上げたら、その最初の数ページを捨ててしまうべきだと。

一理ある。D・H・ロレンスも同じような指摘をしている。短篇小説を書き終えて、すべて完了という段になったら、もう一回元に戻って、木の枝をゆさゆさと揺さぶらなくてはならない。そのあとでまた剪定を始めるんだ、と。

実にいいQ&Aが続きますね。よく耳にすることではありますが、レイ・カーヴァーやヴォネガットおじさんたちが言うと説得力が違ってきます。

――あなたは短篇小説を一気に頭から最後まで書いてしまう方ですか?

そうだね。私は中断が入って、物語がそのまま失われてしまうことを恐れる。何であれ、その話を書きたいと私に思わせた「何か」がね。短篇の第一稿を完成させるのに、二日以上の時間をかけたことはないと思う。だいたい一日で仕上げる。それをタイプで打って、完成稿に仕上げるまでにはずいぶん時間がかかる。
しかし物語の姿がはっきりと見えているうちに、どこかにしっかりと書き付けてしまうというのが大事なんだ。明日になったらそれは今ほど見えなくなってしまうかもしれない。だから初稿を書く段階では、その「何か」を信頼して、とにかく身を任せてしまうしかないんだ。そこかに何か重要なものが出てくるだろうと望みつつ、信じつつ、とにかく素早く仕事を進めていくんだ。
頭の中にそいつが息づいているうちに、ひとつのかたちにまとめてしまうんだよ。それさえすませてしまえば、あとは好きなペースで好きにいじっていくことができる。腰を据えて、考えながらことを進めることができる。


これまでにも何度か触れてきたことがあるカーヴァーの執筆スタイルですが、実際にやろうとしても、そうは簡単にできるもんじゃありません。ここはやはり、各自のやりやすい方法でトライするしかないでしょうね。
そもそもの発想から仕上げるまでにカーヴァー独自のスタイルがあるように、それぞれが独自のスタイルを模索する以外にありません。
ただし、初期の村上春樹さんは、カーヴァーのスタイルを自家薬籠中の物にしたようですけどね。かつてご自身の短篇小説の書き方をそんな風に発言されていたと記憶しています(そして、短篇に関してはさほど苦にならないとも……)。

そういうのが才能なんでしょうね。そしてボクが春樹さんを「生来の短篇小説家」と言うのも、そういうところからなんです。

つづきます。



   

~ Comment ~

このスタイル 

このスタイルを取ることができるのは、文学的技術(才能)を有していて、そして、年齢問わずそれなりの文学的(?)経験(積み重ね、インプット&トレーニング)が有機的に体に染み込んでいる方だと思います。

わたしは今までにまともに小説を書けるほどの読書量がなかったのですが、近頃小説を読んでいて、例えばここで意味していることが徐々に見え始めて来ていて、それが楽しく思えているところなんです!とはいえ、書く水準は、まだまだですけどね。(とりあえず、まだまだ、と可能性を残して言っておきます涙)

自らのスタイル 

まおまおさん、おはようございます^^

>このスタイルを取ることができるのは、文学的技術(才能)を有していて、そして、年齢問わずそれなりの文学的(?)経験(積み重ね、インプット&トレーニング)が有機的に体に染み込んでいる方だと思います。

どうなんでしょうね? どちらにしても自らのスタイルで書くのが一番だと思います(もちろん、参考にするものは一旦受け入れて試行錯誤することも大事だと思いますが……)

>わたしは今までにまともに小説を書けるほどの読書量がなかったのですが、近頃小説を読んでいて、例えばここで意味していることが徐々に見え始めて来ていて、それが楽しく思えているところなんです!とはいえ、書く水準は、まだまだですけどね。(とりあえず、まだまだ、と可能性を残して言っておきます涙)

「読書量=書ける」とは思いませんが、少なくとも比較対象の作品に触れることで何らかのアドバンテージはあるかもしれません。
でもやはり、最も大切なのは「いかに考え(これは視点の問題でもありますよねむ)」、「いかに語るか(もちろんこれはヴォイスです)」ということでしょうね。すなわちそれが「=独自性」なんじゃないでしょうか。
管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

~ Trackback ~

トラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)