デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ その4

 
1984年のインタビューです。インタビュアーはラリー・マキャフリーとシンダ・グレゴリーです。



シンダ・グレゴリーはサンディエゴ州立大学の教授で、ラリー・マキャフリー夫人でもあります。

私の書くものはすべて同じ源泉から、同じ出どころから来ている。小説であれエッセイであれ詩であれね。机に向かって書き始めるとき、私は文字通り、ひとつのセンテンス、ひとつの行だけを手にしている。私はいつもその冒頭の一行だけは、頭の中に確保していなくてはならない。冒頭の一行が私を次の行へとうまく推し進めてくれ、それがはずみみたいになって、やがて方向性が生まれていくわけだ。

――あなたの小説のインパクトが、しばしばひとつのイメージを核として成立しているように見えます。孔雀とか、煙草とか、車とか。それらは詩的なイメージとして機能し、物語を統合し、我々の反応を入り組んだ連想の編み目にまとめあげていきます。こういった核としてのイメージの展開に関して、あなたはどれくらい意識的なのでしょう?

小説を書くときに、中心イメージを意識的に創り出すというようなことはないな。詩においてはしばしば、ひとつの、あるいは複数のイメージが詩作をコントロールするということはあるけれど、小説はそうじゃない。私はひとつのイメージを頭の中に持っているけれど、でもそれはたぶん物語の中から有機的に、自然に生まれてくるものみたいだ。
たとえば私は『羽根』という作品の中で孔雀のイメージがあれほど大きな役割を果たすことになるとは、前もって予想していなかった。孔雀というのは田舎の小さな農場に住む家族のまわりを走り回っている何か、というので頭に浮かんだものに過ぎない。それをひとつのシンボルとして使おうなんて思いもしなかった。
私は小説を書くとき、シンボルをどう展開していこうとか、ひとつのイメージがどういう働きをするかなんてことは、まず考えない。
話の中でうまく機能しそうなイメージをふと思いついて、それが狙ったとおりの意味をもって(あるいは同時に、ほかのいくつかの意味をもって)働いてくれたときはすごく嬉しいよ。でもそういうのを計算ずくでやることはない。自然に、勝手に起こることなんだ。私はそういうイメージを自然な気持ちで創り出す。すると物語が進行していくにつれて、然るべきものごとがそのイメージのまわりに形成されていくんだ。回想やイマジネーションがそれらに色づけみたいなことを始める。


1986年のインタビューはこうです。インタビュアーはウィリアム・スタルで「生と死の問題」というタイトルがつけられています。

まっとうな考え方をする読者や作家は感傷的なものを避けようとする。しかしセンティメントとセンティメンタリー(感傷)のあいだには違いがある。私はセンティメントというものを大事にしたい。私は人生における、人と人とのあいだの個人的な、インティメート(親密)な関係に関心を持つ。だとしたら、文学の中でそのような関係性を語って、そのどこがいけないのだろう? 『散髪』や『贈り物』の中で語られている親密な体験のいったいどこがいけないのだろう?
そのような体験を詩のかたちに変えるのがいけないことなのだろうか? そのようなささやかな出来事は、我々の日常生活における重要な下地なのだし、それを詩にすることに私は何の問題も感じない。結局のところ、そういったものごとは私たちすべてが共有することなのだ。読者として作家として、そして人間としてね。

60年代、70年代の文学的実験主義に関して言えば、私はその多くにずいぶん辟易させられた。そのような文学的実験は失敗に終わったと私はみなしている。自己表現のための異なった方法を試してみることによって、実験的な作家たちは、もっと基本的にして本質的なところでコミュニケートすることに失敗してしまったんだ。彼らはどんどん読者から遠いところに行ってしまった。〈中略〉
重要な意味を持つものごとを取り上げ、それについて書かないとしたら、いったい我々は何をやっているんだ、ということになるよね。重要な意味を持つものごと、それは『生と死の問題』ということだ。


つづきます。



   

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