デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ その2

 
前回の続きです。

詩や短篇小説においては、日常的な物事や対象について日常的な、しかし正確な言語を使って書くことは可能である。そしてそれらの物事に――椅子や窓のカーテンやフォークや石や女性のイアリングに――強烈な、ある場合にははっと目を見開かされるようなパワーを付与することも可能である。一見してとくに見栄えのしない台詞をある場所にぼつんと置くことによって、読者の背筋を凍りつかせることだってできる――ウラジミール・ナボコフなら、それこそが芸術的喜びの源泉と言いそうである。私はそういう小説がいちばん好きなのだ。たとえそれが実験小説という旗のもとを飛翔していようが、あるいはただのへっぽこリアリズムであろうが、私は杜撰ででたらめな文章が大嫌いである。イサーク・バーベリの書いた『ギ・ド・モーパッサン』という素晴らしい短篇の中で、小説を書くことについて語り手がこんな風に言う。「正確な場所に置かれたピリオドは、どんな鋭利な鉄よりも人の心を激しく切り裂く」と。これもカードに書いて壁に貼っておかなくてはならない。
エヴァン・コネルがこんなことを言ったことがある。ひとつの短篇小説を書いて、それをじっくりと読みなおし、コンマをいくつか取り去り、それからもう一度読みなおして、前と同じ場所にまたコンマを置くとき、その短篇小説が完成したことを自分は知るのだと。こういう姿勢で何かに臨むというのはいいことだ。何をするにせよ、すべからくこれくらい綿密でありたいものだと思う。結局のところ、我々が手にしているのは言葉だけなのだ。そしてそれらの言葉は正しい言葉であったほうがいいに決まっているし、そしてまた正しい場所に句読点がついていたほうがいいに決まっているのだ。それによって初めて、それらの言葉は、言わんとすることを十全に伝えることができるというものである。もしその言葉が、作者の十分に統御されていない感情でずっしりと重くなっていたり、あるいはそれ以外のなんらかの理由によって不正確で不明確なものであったなら――もしその言葉がいささかなりともぼやけたものであったなら――読者の目はその上っ面を滑っていくだけだし、何の印象も残さない。読者の側の芸術的感興というものが喚起されないのである。ヘンリー・ジェームズはこのような哀れな文章のことを「お粗末な箇条書き」と呼んでいる。


こんな「お粗末な箇条書き」は誰しも陥りやすいことですよね。気をつけたいものです。

私の友人の何人かは、そんなにゆっくりと時間をかけて書いているわけにはいかないんだと私に言ったことがある。彼らは金を必要としているし、編集者なり奥さんなりが彼らをせっついているか、あるいは逃げ出そうとしている――それがあまり良い作品を書けないことの弁明、言い訳である。時間があればもっといいものが書けたはずなんだけどね。ある物書きの友人がそういうことを言うのを耳にしたとき、私は本当に度肝を抜かれてしまった。今だってそのときのことを思い出すと、愕然としてしまう。まあどうせ他人のことだから、いちいち思い出したりはしないけれど。しかしもしその語られた物語が、力の及ぶ限りにおいて最良のものでないとしたら、どうして小説なんて書くのだろう? 結局のところ、ベストを尽くしたという満足感、精一杯働いたというあかし、我々が墓の中にまで持っていけるのはそれだけなのである。私はその友人に向かってこう言いたかった、悪いことは言わないから別の仕事をみつけた方がいいよと。同じ生活のための金を稼ぐにしても、世の中にはもっと簡単で、おそらくはもっと正直な仕事があるはずなのだ。さもなければ君の能力と才能を絞りきってものを書け。そして弁明をしたり、自己正当化したりするのはよせ。不満を言うな、言い訳をするな。
『短篇小説を書く』という実にシンプルな題のついたエッセイの中で、フラナリー・オコナーは書くというのは発見をする行為なのだと述べている。彼女はこう言っている。自分が机に向かって短篇小説を書き始めるとき、ほとんどの場合、その話がどう進んでいくかという見通しなんて持ってはいないのだと。そして、世の中の大方の作家は自分と同じようにやはり、書き始めるときには筋の見通しなんて持っていないのではあるまいかと彼女は言う。彼女は『良き田舎の人々』という作品を例にあげて、結末がどうなるかわからないままにひとつの短篇小説をまとめあげる方法というのを説明している。彼女は結末が目前に迫ってくるまで、その話の結末がいったいどうなるのか予測すらできなかったのだ。




その短篇を私が書き始めたとき、義足をつけた博士号取得者がそこに出てくるなんて、自分でも知りませんでした。ある朝に、いささかの心覚えのある二人の女性の描写をしているうちに、自分でもよく気がつかないまま、私は彼女たちの一人に義足をつけた娘を配していたのです。私は聖書のセールスマンも出してきました。でもその男をどう使えばいいのか、私には何もわかっていませんでした。彼がその義足を盗むことになるなんて、その十行か十二行前になるまで私にもわからなかったのです。でもそれがわかったとき、私はこう思いました。これこそ起こるべくして起こったことだったんだと。それが避けがたいことであったことを私は認めたのです。

数年前にこれを読んだとき、彼女が、あるいは他の誰でもいいのだが、こういう方法で短篇小説を書いていることを知って、私はショックを受けた。私はそれを人前には晒せないような類いの自分だけの秘密として抱え込んでいて、そのことについていささか後ろめたく思っていたからだ。そう、私はこのような短編小説の書き方というのは、自分に才能がないからだと思い込んでいたのだ。彼女がそれについて腹蔵のないところを書いてくれたおかげで、私はものすごくほっとしたものである。
かつて私は机の前に座ってひとつの短篇(それはかなり出来の良い作品になった)を書きあげたことがあるが、それを書き始めたとき、私の頭の中に会ったのは出だしの一行だけだった。私はその「電話のベルが鳴ったとき、彼は掃除機をかけていた」という一行を数日のあいだ頭の中でひねりまわしていた。そこに物語が含まれていることを、そしてその物語が語られたがっていることを私は知っていた。私は骨の髄にまでしっかり感じたのだ。その出だしはひとつの物語に結びついていて、書く時間さえあれば、自分にその話を書き上げることができるのだということを。私はその時間をみつけた。その気になりさえすれば丸一日――十二時間、十五時間くらいだって構わない――でいいのだ。私はそれを実行した。私は朝机の前に座って、出だしの一行を書いた。するとそれに続いて次の一行が自然に出てきた。私はまるで詩を書くように、その物語を作っていった。まず一行を書いて、その次の一行を書き、またその次という具合にだ。そして間もなく物語の姿が私の目に見えてきた。そして私は、それが私自身の物語であることを知った。それは私がずっと書きたいと思っていた物語だったのだ。




おそらくその短篇とは、日本に初めてカーヴァーが紹介されることになった短篇集『ぼくが電話をかけている場所』に収録されている「あなたお医者さま?」だと思うんだけど(そして翻訳者である村上春樹さんがカーヴァー作品の中でも特別に愛している短篇のひとつだと公言している作品です――そのためなんでしょう、春樹さん作品にも多大な影響をもたらしていますよね(たとえば『ねじまき鳥クロニクル』の発端でもある短篇「ねじまき鳥と火曜日の女たち」の冒頭なんて、そのまんまと言ってもいいくらいです)。

短篇小説の中に毒気や脅威のようなものを感じ取れるのは、私にとっては好ましいことである。少量の脅威の存在というのは物語りにとって有益であると私は思っている。まず第一に、それは血液の循環をよくする。そこには緊迫感がなくてはならない。何かが切迫しているという感覚、物事はこのままでは収まらないぞという感覚、それなしには、大方の場合、物語は生まれてこない。短い小説の中に緊迫感を生み出すもののひとつは、かっちりとした言葉の結びつきである。それが物語の目に見える動きを作りだす。しかしそれと同時に、そこには書かれていないもの、ただ暗にほのめかされているもの、物事のつるっとした(しかしときにはでこぼこで座わりの悪い)表面のすぐ下にある風景、そういったものも、それと同じ役割を果たす。
V・S・ブリチェットは短篇小説というものをこう定義している。それは「通り過ぎるときに、目の端っこでちらっと捉えられた何か」であると。「ちらっと捉えた」というところに注目してほしい。まず最初にその「ちらっ」があるのだ。それからその「ちらっ」に生命が与えられ、その一瞬の情景を明るく照らし出す何ものかに変えられる。そして運が良ければ(という表現がここでもう一度出てくるわけだが)それは、もっと遠くの方までに光をあてることのできる繋がりやら意味やらまでを手に入れることになるかもしれない。短篇小説作家の仕事は、その「ちらっと捉えたもの」に対して自分の持っている力の一切を注ぎ込むことなのだ。彼はその知力と文学的技術(つまりは才能)とを駆使し、平衡感覚と、「これぞぴったり」と見極める判断力とをまた駆使しなくてはならない。そこにある事物が実際にはどうであって、そして彼の目にはそれがどういう風に映るか――他の人間がそれを見るのとはどのように違った風に映るか、ということである。そしてそれは、ぴったりとした明確な文章を使うことによって達成される。ぴったりとした明確な文章は細部に生命を与え、その細部が読者に向けて物語を明るく照らしだすわけだ。細部がかっちりと締まって、意味を含むようにするためには、文章は正確でなくてはならないし、間違いのないように配されなくてはならない。それらの言葉はあまりにも正確であるがゆえに、あるいは素っ気なく響くことだってあるかもしれない。しかし案ずることはない。正しく使用されてさえいれば、それらの言葉はあらゆる音を奏でることができるのだ。


「書くことについて」は、これで終わりです。

つづきます。



   

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