デニム中毒者のたわごと

Literature

レイモンド・カーヴァーに学ぶ その1

 
レイモンド・カーヴァーについては何度も書いた記憶があるんですが、ここで改めて初心に還って語ろうと思います。リチャード・ブローティガンやポール・オースターと共に、いつまで経っても常に気になる作家のひとりですし、インスパイアされること必至の小説家ですので……。

ですから彼に関する記事の切り抜きやメモも大量に手元にあります。そこで今シリーズは(と勝手にシリーズ化宣言しちゃいますが・・・笑)、そのあたりを中心にしようと考えています(もしかしたら既に書いたことのある内容と被る箇所も出てくるかもしれませんが、その時はあしからず)。

過去ログでも書いているんだけど、ボクはカーヴァーの本当のヴォイスを知りません(つまり、村上春樹訳のカーヴァーのヴォイスに惹かれているわけです)。そういうわけで、正確には「春樹カーヴァー」もしくは「レイモンド村上」という短篇小説家を敬愛しているのかもしれません(それはある意味三田誠広さんがご自身の著作でかつて仰っていたように村上訳のカーヴァーが「日本語で読める文章としては最高峰である」と信じているからなのだと思います――ただし三田さんは春樹作品に関しては、とりわけそのヴォイスがお嫌いなようでしたが……)。でも、それはそれでいいとも思っています(日本語で読める作品として偏愛しているわけですからね)。

ですから、中央公論新社から刊行されている「レイモンド・カーヴァー全集」(全八巻)はボクにとってのバイブルになっています。

















特筆すべきは、春樹さんの翻訳が何度も更新されているってことです。つまり、改めて翻訳し直している作品が多々あるんですよね(もっともそれは翻訳に限らず、春樹さん自身の作品に関しても同じスタンスなんですけど……)。

それと村上春樹全集もそうなんだけど、巻末に解説が掲載されているんですよね(春樹全集の場合は自作解題になりますが)。これは春樹さんが関わった書物としては異例なことで、それだけお得感満載でもあります。

そんな中から今回は初回として、カーヴァーのステートメントとも呼べる一文「書くことについて」を紹介します。

一九六〇年代の中ごろのことだが、私は長篇小説に自分の神経を集中するのが難しいことを発見した。長篇小説を読むことにも書くことにも苦労をおぼえた。途中で集中力の寿命が尽きてしまったのだ。そして忍耐をしてまで長篇小説に取り組もうというような気はもう起きてこなかった。長くて退屈な話になるので、それについてはここでは詳述を避けることにするが、でもまあそのおかげで、私は今では詩と短篇小説だけを書くようになった、ということになるだろう。さっさと片づける、ぐすぐずしない、次に進む、という具合だ。そしてそれとほぼ時期を同じくして、それは二十代の後半のことだったが、私は大いなる野心を捨てたと言ってもいいかもしれない。もしそうだとしたら、それは私にとって良いことであったと思う。野心といささかの幸運は作家の良き財産である。しかし大きすぎる野心と不運は(あるいは運にまったく恵まれないことは)命取りになりかねない。そこには才能というものがなくてはならないのだ。
何人かの作家はたっぷりと才能を持っている。才能のない作家というのを私は見たことがない。しかしながら、ユニークかつ正確に物事を見ること、その視点を文章として表現する正しいコンテクストを発見すること、これはまた別の話だ。『ガーブの世界』は言うまでもなく、見事なジョン・アーヴィングの世界である。





その他にもフラナリー・オコナーの世界がある。ウィリアム・フォークナーの世界があり、アーネスト・ヘミングウェイの世界がある。チーヴァーアップダイクシンガースタンリー・エルキンアン・ビーティシンシア・オジックドナルド・バーセルミメアリ・ロビンソンウィリアム・キトリッジバリー・ハナアーシュラ・K・ルグィンの世界がある。すべての偉大な作家や、すべてのきわめて優れた作家は、彼ら独自の流儀に従って世界を作り変えていくものなのだ。
スタイルという言葉が、私の言っていることに近いかもしれない。でもそれはスタイルという一言で括ってしまえるものではない。それはその作家自身の手による、紛れもない署名なのだ。その署名は彼の書くすべての文章に含まれている。それは彼の世界であり、他の誰の世界でもない。それは、一人の作家を他の作家から区別する物事のひとつである。才能というのとは違う。才能なんていうものなら、そこらじゅうにいっぱいある。しかし物事に対する特別な視点を持ち、その視点に芸術的な表現を付与することのできる作家であれば、とりあえずは一人前の書き手ということになるだろう。


とても大事なことを言っていますよね。

アイザック・ディネーセンはこう言った。私は、希望もなく絶望もなく、毎日ちょっとずつ書きます、と。いつか私はその言葉を小さなカードに書いて、机の横の壁に貼っておこうと思う。壁には今何枚かのカードが貼ってある。「基本的な正確さを持って記述すること、「それこそ」が文章を書くことにおける唯一のモラリティーである」これはエズラ・バウンドだ。それが全てだということには「それこそ」問題があるだろうが、作家が「基本的な正確さを持って記述」している限り、少なくとも彼は正しい道を歩んでいるということにはなるだろう。
私はチェーホフの短篇の中のある一節をカードに書いて壁に貼っている。「……やがて突然、すべての物事が彼の中で明確になった」なんと不思議で、なんと可能性に満ちた言葉だろう。私はその単純な明快さと、そこにほのめかされた啓示の影を愛している。そこには謎もある。それより前には何が不明確であったのか? どうしてそれが急に明確になったのか? そこには何が起こったのか? そしていちばん大事なこと――それでどうなるのか? そのように急激に全てが明らかになったことによって、何かがもたらされることになる。きっとそこには救済があるのだろうと私は思う――そして期待が。
作家のジェフリー・ウルフが、創作科の学生たちに向かってこう言うのを耳にしたことがある、「安っぽいトリックはなし」と。これもカードに書いておいていい言葉だ。私は、「トリックはなし」と縮めるだろう。それだけでいい。私はトリックというのが嫌いだ。小説を読んでいてトリックなり仕掛けなりがちょっとでも見えると、それが安っぽいものであれ、精巧なものであれ、私はしり込みしてしまうことになる。トリックというのは結局のところ退屈なものであるし、私はすぐに退屈してしまう性質(たち)なのだ。それはあるいは私の集中力があまり長く続かないことと何か関係があるのかもしれない。でも知恵のまわるわざとらしい文章や、あるいはただ単に馬鹿げた文章を読んでいると、私はすぐに眠くなってしまう。作家にはトリックも仕掛けも必要ではない。それどころか、作家になるには、とびっきり頭の切れる人間である必要もないのだ。たとえそれが阿呆のように見えるとしても、作家というものはときにはぼうっと立ちすくんで何かに――それは夕日かもしれないし、あるいは古靴かもしれない――見とれることができるようでなくてはならないのだ。頭を空っぽにして、純粋な驚きに打たれて。
何ヵ月か前に、「ニューヨーク・タイムズ・ブックレヴュー」に、ジョン・バースがこんなことを書いていた。十年前には彼の教えている小説創作セミナーの大抵の学生は「フォームの革新」に興味を持っていた。でも今ではそれはすっかり下火になってしまったようだ。
一九八〇年代には作家たちはみんなで「その辺のちょっとした出来事小説」を書き始めるのではないかと、彼は少し不安に思っている。実験小説はリベラリズムと同じように流行遅れになるのではないかと、彼は心配している。その文学における「フォームの革新」についてのうっとうしい議論を小耳にはさんだだけで私は、いささか居心地が悪くなる。非常にしばしば、「実験小説」は文章の杜撰さや愚かさや模倣性の免罪符になった。もっと悪いことには、それは読者を踏みつけにし、疎外する免罪符になった。きわめて往々にして、その手の文章は我々に世界のありさまについてのニュースをもたらしてくれない。あるいはさもなければ、それが描写しているのは砂漠の光景、ただそれだけである。いくつかの砂丘があり、あちこちにトカゲがいる。しかしそこには人間がいない。そこには人間と認められるようなものは生息していない。それは少数の専門的な科学者にしか興味の持てない世界なのだ。
創作における真の実験とはオリジナルなものであり、生半可に手に入るものではないし、またそれは喜びに結びついたものなのだと心するべきである。どこかの作家の――たとえばバーセルミの――ものの見方を他の作家が真似をするというのは正しいことではない。そんなことをしてもうまくいくはずもない。この世にバーセルミは一人しかいないし、他の作家がバーセルミの特殊な感覚なり舞台装置なりを、革新の名のもとに拝借しようとすることは、その作家を混乱と悲惨さの中に、あるいはもっと悪いときには自己欺瞞の中に、引きずり込むことになる。真の実験作家というのは、エズラ・バウンドが力説しているように、「新しいことを始める」人のことである。そしてそのプロセスの過程において自らの手でいろんな物事を発見していく人たちのことである。しかしもし作家たちが正気を保っていれば、彼らはまた私たちと接触を持っていたいと思うものだし、彼らの世界のニュースを私たちに向かって伝えたいと思うものなのだ。


つづきます。



   

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