デニム中毒者のたわごと

Literature

リチャード・ブローティガンを読む その14

 
ブローティガンの詩集『六月三十日、六月三十日』から、池澤夏樹さんが翻訳された寄稿文を紹介しましょう。ちなみに、日本語版だと『東京日記』という詩集として出版されています。



つい最近も平凡社ライブラリーから新たに出版されたみたいです。出版社による内容紹介は以下の通りです。

一九七六年五~六月、ブローティガンは一ヶ月半日本に滞在し、日記のように日々の気分や思い、観察を詩に著した。深いペーソスあふれる最後の詩集、待望の再刊。



ブローティガンの翻訳に関しては絶対的に藤本和子さんを支持しているボクですが(同じようなことを思っている人も多いみたいで、こんな記事に出逢いましたのでリンクを貼っておきます)、詩集に関しては、それほどこだわりなく読んでいます(何なら原文でもOKです)。

『東京日記』の翻訳は福間健二さんがされていますが、池澤夏樹訳だとどんな感じになるんでしょう? そんな興味も湧いてきます。

エドワード叔父ならびに
その他すべてのエドワード
叔父たちよ、さようなら

          リチャード・ブローティガン
                 池澤夏樹訳


序文
ぼくのエドワード叔父はもう死んでいる。
彼は二十六歳で死んだ。
彼は一家の誇りだった。
一九四二年のことだ。
彼は間接的にはアメリカ合衆国に戦争をしかけた日本の人々に殺された。ずいぶん昔の話だ。彼がミッドウェイ島で工兵として働いていた時、一九四一年十二月七日、日本がこの島に攻撃をしかけた。軍用機が機銃掃射と爆撃をした。エドワード叔父は機関銃を一つ渡されて島の防衛を手伝うように言われた。彼は銃をすえつけるのに良い場所をみつけ、そちら歩きはじめた。しかしそこに到着することはできなかった。
日本の飛行機の落した爆弾がすぐそばで爆発し、破片が、影のように、彼の頭に入った。エドワード叔父にとってすべては空白になり、機関銃をすえつけるために行こうとしていた場所ははるかに遠く暗くなり、彼の人生とはまったく無縁なものになった。
彼は船でミッドウェイ島から運び出され、ハワイへ連れてゆかれて、そこで何か月か意識のない昏睡状態でいた。破片は頭から除去され、彼はそこで頭に包帯を巻かれたまま何週間ものあいだ横になっていて、それからやっと目を開いてこの世界に戻ってきたが、それも長いことではなかった。
一九四二年の春には彼は十二月七日の傷から部分的に恢復していたが、その年、後になってからアラスカのシトカで「秘密」航空基地で働いている時に死んだ。
ハワイで恢復を待っている時に彼はラディヤード・キップリング、ロバート・W・サーヴィス、それにオマル・カイヤームなどの傾向をひく詩を書いた。それにおぼえている彼等の詩を紙に書いたりもした。それらは最後にぼくの母の手もとに戻った遺品の中にあった。彼は優秀なエンジニアで、おまけに少しロマンティックなところもあった。
詩は三つの輪でとじたルーズリーフに書いてあった。
ぼくは戦争が終って間もないころその詩を読んだことをおぼえている。読むのは不思議な感じだった。戦争は終っていた。われわれは勝った。エドワード叔父は死に、ぼくは彼の詩を読んでいた。
ホノルルの病院を出たあと彼はサン・フランシスコに行き、ある離婚女と二週間の恋をした。これは当時としては大変なことだった。彼等には肉体の快楽という明らかな理由以外にも結びつけるきずながあって、それはオマル・カイヤームの詩が好きだということだったから、おそらくすばらしい性交の後、おたがいに彼の詩を朗唱しあったりしたのだろう。
エドワード叔父はそれから数か月しか生きていなかったのだから、それくらいの楽しみを得る資格は充分あったとぼくは思う。彼は秋には死ぬことになっていた。ぼくは彼の棺のわきに七歳の少年の姿で立ち、グロテスクな化粧をした彼の顔を見おろし、死んだ唇に塗られた口紅にキスしろと言われることになっていた。ぼくは嫌だと言い、葬儀場の通路を走って彼の棺から、彼の死からわめきながら逃げ出した。一家の誇り、一家の未来はこの頬紅と口紅を塗られた死体になってしまった。
外では雨が降っていた。
夜だった。
日本の人々が彼を間接的に殺した。
彼の上に爆弾を落した。
サン・フランシスコでの離婚女との恋のあと、彼は航空基地で働くためにアラスカのシトカへ行った。
彼が死んだ時のことはこうだ。
彼は航空基地でまだ包帯を巻いたまま働いていた。彼は爆弾の影響からすっかりは恢復していなかったのだが、国のために働きたいと思ったのでそこへ行った。
ある日、建築中の建物の三階にクレーンで引きあげるために、台の上に材木が何本か積まれた。
彼はその台に載って材木といっしょに上へ上りはじめた。誰かに会うか建物のどこかを点検するつもりだったのだと思う。台が地上から十六フィートの高さになった時、彼は落ち、首の骨を折った。
何千人もの人が十六フィートの高さのものから落ち、びっくりはしてもそのまま歩いて帰る。足や手を折る者もいる。エドワード叔父は首の骨を折り、その結果ぼくはワシントン州のタコマで雨の夜、彼の棺のわきに立ち、彼の死んだ唇に塗られた口紅に愛のしるしのキスをしなさいと言われることになった。ぼくは嫌だと言って、葬儀場の通路をわめきながら走った。
彼が台から落ちたのは日本人の落した爆弾の破片が頭に入ったことに起因する目まいのためだとぼくは教えられた。
要するに目まいがし、落ちて首の骨を折ったのだ。
エドワード叔父とちょうど同じ年のころ、ぼくは彼の死について詩を一つ書いた。詩は「一九四二年」という題で、こんなものだ――


 ピアノの木よ 弾いてくれ
 ぼくの叔父の
 暗いコンサート・ホールで
 彼は二十六歳 死んで
 シトカから船で
 家へ戻る途中
 彼の棺は
 一杯のワインの
 グラスにかかる
 べート―ヴェンの
 指のように旅する

 ピアノの木よ 弾いてくれ
 ぼくの叔父の
 暗いコンサート・ホールで
彼はぼくの幼年時代の伝説 死んで
タコマに
送りかえされた
夜 彼の棺は
決して空に触れず
海の中を飛ぶ
鳥のように旅する

 ピアノの木よ 弾いてくれ
 ぼくの叔父の
 暗いコンサート・ホールで
彼の心臓を
恋人にやってくれ
彼の死を
寝台にやってくれ
そして彼を シトカから
船で故郷に送り
ぼくの生れたところに
埋めてくれ

日本の人々が間接的に彼を殺した。
彼の上に爆弾を落した。
彼は最後までちゃんと恢復しなかった。
もう死んでから二十四年になる。
彼は一家の誇りだった。
ぼくたちの未来だった。


今まで書いたことはぼくの一家の伝説である。なにしろ昔の話だから事実や日付は少しずれているかもしれないが、事実や日付はずれるもの、何十年かのうちには変えられるものであって、それは歴史が、そしてこれはぼくの一家の悲劇の歴史なのだが、人間の記憶の不完全と過去を美化したいという人間の性向のために変えられなくてはならないからなのだが、一つだけ完全に正確なことがある――ぼくのエドワード叔父は二十代のなかばにして、日本の人々が彼の頭の上に爆弾を落したことを間接的原因として死んだが、この世界のいかなるもの、いかなる力も祈りも、彼をぼくたちのもとに返してくれることはできない。
彼は死んだ。
永遠に行ってしまった。

これは日本の人々に対するぼくの深い愛着を表現した詩の本の前書きとしては少しおかしいかもしれないが、ぼくを日本へ導き、この本を書かせることになった地図の一部としてどうしても書かなくてはならないことだった。
一九七六年の晩春にぼくを日本へ連れてきてこれらの詩を書かせた地図のほかの部分について、ぼくは話を続けよう。
戦争のあいだずっとぼくは日本人を憎んでいた。
ぼくは彼等を、文明が繫栄し自由と正義がずっと続くためには退治してしまわなければならない人間以下の動物だと考えていた。新聞の漫画では彼等は出ッ歯の猿として描かれていた。プロパガンダは子供の想像力を刺激する。
ぼくは戦争ごっこで何千人もの日本兵を殺した。「タコマの幽霊子供」という短篇でぼくは六つと七つと八つと九つと十の時の自分の日本人を殺そうという熱意を書いた。ぼくは殺すのがとてもうまかった。殺すのは楽しかった。

第二次世界大戦中にぼくは一人で三十五万二千八百九十二人の敵の兵士を殺し、一人の負傷者も残さなかった。戦争の時、子供用の病院は大人用よりずっと少しですむ。子供たちにとって戦争とはいつもみなごろしを意味するのだ。

戦争が遂に終った時のことをぼくはよくおぼえている。ぼくは映画館でデニス・モーガンの映画を見ていた。たぶん歌の多い砂漠の外人部隊の映画だったと思うが自信はない。突然スクリーンに黄色い紙が映って、それにはタイプで日本は今アメリカ合衆国に降服し、第二次世界大戦は終ったと書いてあった。
映画館の中の全員が狂ったように叫んだり笑ったりしはじめた。みんなで外へ走り出すと、道では車が警笛を鳴らしていた。暑い夏の午後だった。あらゆるものが大混乱に陥っていた。まったく見知らぬ者同志が抱きあったりキスしたりしていた。あらゆる車が警笛を鳴らしていた。街路は人で一杯だった。交通機関はみな停っていた。人々はむらがって互いにキスしあい、陶然とした人々を乗せて警笛を鳴らし続ける車に蟻のようにたかって笑いころげた。

それ以外に何ができただろう?
何年にもわたった戦争は終った。
終了した。おしまいだった。

ぼくたちは人間以下の猿である日本の人々を退治し、やっつけた。人類の正義と権利がこれら都市ではなくジャングルに属する動物に勝った。
ぼくは十歳だった。
ぼくはこう思った。
ぼくのエドワード叔父の復讐はすんだ。
彼の死は日本の破滅によって清められた。
広島と長崎は彼という犠牲のバースデイ・ケーキの上で誇らしげに燃える蠟燭だった。
何年か歳月が流れた。
ぼくは大きくなった。
ぼくはもう十歳ではなかった。

急に僕は十五歳になり、戦争は記憶の中に遠のき、それといっしょに日本人を憎む気持ちも遠のいた。感情が蒸発しはじめた。
日本人は教訓を学び、寛大なキリスト教徒であるぼくたちは彼等に第二のチャンスを与え、彼等は見事にそれにこたえている。
ぼくたちは彼等の父親、彼等はぼくたちの小さな子供であって、悪いことをしたから厳しく罰したが今は良い子だからキリスト教徒らしく許してやる。
つまり、彼等ははじめ人間以下だったので、ぼくたちが人間になる方法を教え、彼等はそれをとても速やかに学んでいる。
また歳月が流れた。
ぼくは十七歳になり、次に十八歳になり、十七世紀に書かれた日本の俳句を読みはじめた。ぼくは芭蕉と一茶を読んだ。ぼくは彼等の感情と細部とイメージに集中して遂に露のような鋼の形にいたる、その言葉の使いかたが好きになった。
日本の人々は人間以下の動物ではなく、十二月七日にぼくたちと遭遇する何世紀も前から文明を持っていた、感情のこまやかな心やさしい人たちなのだということにぼくは気付いた。
戦争のことを考えてみた。
何が起こったのかぼくは理解しだした。
戦争がはじまると論理と理性は働かなくなり、戦争が続くかぎり非論理と狂気が支配するのだというからくりをぼくは理解しはじめた。
ぼくは日本の絵画と絵巻物を見た。
そして強い印象を受けた。
ぼくは鳥が好きだから、そしてもう第二次大戦の時の、日本人を憎み、叔父の復讐を求めていた子供ではなかったから、彼等の描く鳥が好きになった。
ぼくはサン・フランシスコに移り、禅を学んで深く影響を受けた人々といろいろなことをしはじめた。ぼくは友人たちの生きかたを見ながら浸透作用によってゆっくり仏教を知っていった。
ぼくは弁証法的宗教思想家ではない。ぼくは哲学はほんの少ししか学ばなかった。
ぼくは友人たちが生活や家の中を秩序づけ、自分たちを扱うそのやりかたを観察した。ぼくは仏教を、白人が来る前にインディアンの子供たちがものを学んだようなやりかたで学んだ。彼等は観察によって学んだのだ。
ぼくは観察によって仏教を学んだ。
ぼくは日本の食物と音楽を楽しむことを学んだ。ぼくは五百本以上の日本映画を見た。ぼくは字幕を読むのがとても速くなり、俳優たちが英語でせりふを喋っていると感じるほどになった。
ぼくには日本人の友だちができた。
ぼくはもう戦時下の憎悪に満ちた子供ではなかった。
ぼくのエドワード叔父は死んだ。ぼくたちの一家の誇りであり未来であった彼は人生の花ざかりという時に殺されてしまった。彼なしでぼくたちはいったいどうすればよかったのか?
何百万人もの日本の若い男たち、それぞれの一家の誇りと未来が死に、そのほかに何十万もの罪のない女や子供が日本に対する焼夷弾攻撃と広島と長崎に落された原子爆弾によって死んだ。彼等なしで日本はいったいどうすればよかったのか?
うういうこと一切が起らなければよかったとぼくは思う。
ぼくは谷崎やなにか日本の小説を読んだ。
そしていつか日本に行かなくてはならないと覚った。ぼくの人生のその部分はもう先まわりして日本にいた。ぼくの本は日本語に訳され、極めて知的な反応が返ってきていた。ぼくはそれに鼓舞され、森の中を音もたてずにゆく狼のように、自分の著作の孤独な方位をたもつ勇気を与えられた。
ぼくは旅行が嫌いだ。
日本ははるか遠い。
しかしいつの日か行かなければならないことをぼくは知っていた。日本は、まだ行ったこともない場所へぼくの魂をひきつける磁石のようだった。
ある日ぼくは飛行機に乗って太平洋を飛びこえた。これらの詩はぼくが飛行機を降り、日本の土に足を置いてから起ったことについて書いたものだ。詩には日付があり、一種の日記の体裁をなしている。
ぼくが前に書いた詩とは違っている。ともかくぼくはそう思っているが、あるいは書いた当人には最後までわからないのかもしれない。質的にむらがあるがぼくは一応全部印刷することにした。日本でのぼくの感覚と感情を表わした日記だからというのが理由で、生活の質というのは往々むらがあるものだ。
これらの詩はエドワード叔父に捧げられる。
これらの詩は一九四一年十二月七日から一九四五年八月十四日、つまり戦争の終った日、までの間に肉体から生命をぬきとられた日本のすべてのエドワード叔父たちに捧げられる。
戦争が終ったのは三十一年前だ。
一世紀の三分の一にあたる歳月が過ぎた。
戦争は終った。
死者が永遠に平和のうちに憩い、ぼくたちの到着を待っていてくれるように。

モンタナ州 パイン・クリーク
一九七六年八月六日


ブローティガンがこの文章を書いてから40年が過ぎました。そして彼は誰もが――おそらく自分自身も――思っていないくらい早く、死者が待っている永遠なる平和の憩いの地へ旅立っていきました。それからも32年が過ぎているんですよね(それはまた、ボクが初めて父親になった年でもありました――ブローティガンが自死した頃は、まさに臨月を迎えていた時期に相当します)。

ほんとに人生って不思議な巡り合わせに満ちていますよね。
ブローティガンが夢想した憩いの場が本当にあるのだとしたら、いつかそこで彼に逢いたいものです。

つづきます。



   

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