デニム中毒者のたわごと

novel

リチャード・ブローティガンを読む その10

 
伝説のフォークシンガーのひとりであり、また詩人でもある友部正人さんの寄稿文で「ブローティガン日和」を紹介しましょう。



もう何年か前、とあるスタジオの階段に「アメリカの鱒釣り」が置いてあった。そこはふつうは本を置いておくような場所じゃなかったけど、捨ててあるようにも見えなかったのでそのままにしておいた。明け方近く、帰る時にもう一度見てみると、「アメリカの鱒釣り」はあいかわらずそこにあって、もう誰も取りには来ないようだった。ぼくはそれを鞄に入れて家に持ち帰った。スタジオの階段に置きっぱなしになっていた「アメリカの鱒釣り」は、今度はぼくの本棚の中で今日まで置きっぱなしになっていた。
今日引っぱり出してきて見ると、表紙の写真の女性の口のところに煙草の焼け焦げがあった。ぼくはもう十年以上煙草を吸っていないから、本を階段に置きっぱなしにした人がつけたんだろう。ぼくはその焼け焦げを無視して、「アメリカの鱒釣り」を読みはじめた。
結局ぼくは、「アメリカの鱒釣り」を読み終えることができなかった。途中で休けいが必要になって、自転車で井の頭公園の池まで行ってみた。平日だったので、池にはボートが少し浮んでいるだけだった。それに天気もよくなかった。やがて雨が降りはじめて、池には一そうのボートもいなくなった。ぼくは五百円を払ってボートを一時間借りることにした。ぼくは手にビニールの傘と棒きれを持っていた。傘は雨をよけるために使い、棒きれは魔法を使うためだった。ぼくは池のまん中まで行き、そこで漕ぐのをやめた。傘をさして雨をよけ、持っていた棒きれで釣りをはじめたのだ。
雨の日の井の頭公園の池の上は、ブローティガンの「アメリカの鱒釣り」の中によく似ていた。ぼくはビニールの傘をさしていたし、持っていた棒きれからは釣り糸はたれていなかった。しかも、井の頭公園の池に鱒がいないことはわかりきっていた。ぼくは水の上に浮んでいるようにして、「アメリカの鱒釣り」の本の中にとどまっていたのだ。
「アメリカの鱒釣り」の中のアメリカは、ビニール傘を通してながめる雨の日の井の頭公園のようだ。池の中に鱒はいないけれど、鱒は木立の中にいてしきりに片目ばかりを閉じていた。ウインクしようとしていたのかもしれない。ぼくはそれには答えずに、「アメリカの鱒釣り」の訳者あとがきを読みはじめた。
「アメリカの鱒釣り」が日本語に訳されたころ、ブローティガンはまだ生きていた。それは一九七三年から七四年にかけてのころで、ぼくはそのころアメリカにいた。一九七四年の二月から七月いっぱいまでいたわけで、それがぼくの唯一のアメリカ体験だ。本屋さんに積み上げられてあったブローティガンの本を手にとって、アメリカでどれだけ読まれているかということを、ぼくは友だちから強調されたことを覚えている。ぼくはこの時、シティ・ライツ・ブックストアでアレン・ギンズバーグに会った。谷川俊太郎さんが紹介状を書いてくれたのだ。同じ日ぼくは晶文社の人の紹介状を持って別の人もたずねた。いきなり行ってぼくはその人におこられてしまった。アメリカでは、見ず知らずの人を突然たずねるのは非常識なことだというのだ。たとえ紹介状を持っていたにしても。サンフランシスコで、ぼくにはその二つの思い出がある。訳者あとがきを読んでいて、ぼくはこのふたつのことを思い出した。ギンズバーグには会えて、ブローティガンとは本の上でもすれちがってしまったことと、あまり関係はないかも知れないが。
〈二〇八〉という名の猫が出てくる。ぼくのうちの猫とよく似ている。なでようとするとただひたすら噛むのだ。ただのお愛想なのか肉をつき破るほどには強くはない。〈二〇八〉という名前がどこから来たのかを、ブローティガンはこんな風に書いている。(〈二〇八〉は山腹を下る雪どけ水のように、一匹の猫のところまで遙々流れて行ったのだった。久しく猫を見かけないので、自分を地上最後の猫だと思い込み、怖れも知らず、洗面所には新聞紙が敷きつめられていて、電熱器の上では美味そうなものが煮えている〈アメリカの鱒釣りホテル〉に暮らす一匹の猫のところまで、それは流れて行ったのだった。)〈二〇八〉という数字が、保釈関係の事務を扱う部屋のドアの上から、一匹の猫のところまで流れてくる様子は、アニメーションとして見るならふつうだけど、言葉ではかなり奇妙だ。そんな奇妙なことを、言葉で説明してしまうのがブローティガンの小説なんだと思った。〈クールエイド中毒者〉にしてもそうだ。クールエイドを倍の量の水でうすめてしまうと、それは(理想的な濃度の影であるにすぎなく)なってしまう。ちっとも甘くない粉末ジュースを、病気の膀胱のように大切そうに抱きかかえている様子は、絵で見た方が奇妙ではない。だけどそれは、アニメーションや絵で見た方がいいということではなく、奇妙だからこそ言葉で読んだ方がおもしろいということなのだ。ぼくは雨の日の井の頭公園の池の上にいて、ブローティガンを読んでいるのと似たような気持でいた。その気持ちは、書くことが何もない時にとても似ていた。書くことが何もなくて、妙に軽いけど重たい気持ち。そしてぼくは、井の頭公園の池の上で思ったのだ。書くことが何もない気持ちって、書くことが山ほどあることを発見する気持ちと似ているんではないだろうかって。書くことがなくなって、書くことが見つかる日のことを、ぼくはこれから〈ブローティガン日和〉と呼ぶことにしよう。


うん、友部さんの文章って心地良いなあ~。

ところで「〈二〇八〉という数字と猫」なんて聞くと嫌でも村上春樹さんを連想しちゃいますよね(笑)そうです、春樹さんの猫好きはつとに有名ですし、数字の方は『1973年のピンボール』に登場してくる双子の女の子のひとりが着ていたトレーナー・シャツの胸の番号と一致します。やっぱりねえ~(^^♪と思ってしまうのはボクだけでしょうか?



つづきます。



   

~ Comment ~

もっと読むぞ 

ブローティガンさんは、西瓜糖と鱒と愛のゆくえの三冊を読んだことあります!!この三作品の中だと『西瓜糖の日々』がいいなあ。わたし。これは単純に好みだ。高橋さんは共著合わせると五冊くらい読んでますが、どのみち出版点数に対してはものすごく少ないので、小説などをもっと読んでみたいです。
たしかに友部さんという方の文章は滑らかですね。柔らかいです。
そして、今わたしが感じるのは、……コウさんの村上春樹さんへの思いの深さです笑

バレバレ 

まおまおさん、こんにちは^^

>ブローティガンさんは、西瓜糖と鱒と愛のゆくえの三冊を読んだことあります!!この三作品の中だと『西瓜糖の日々』がいいなあ。
わたし。これは単純に好みだ。

わかるような気がします。

>高橋さんは共著合わせると五冊くらい読んでますが、どのみち出版点数に対してはものすごく少ないので、小説などをもっと読んでみたいです。

うん、いいですヨ。個人的には『ミヤザワケンジ・グレートヒッツ』とか、『銀河鉄道の彼方に』とか、宮沢賢治さん絡みの作品が好きです。もちろん、『さようなら、ギャングたち』は外せませんけどね。

>たしかに友部さんという方の文章は滑らかですね。柔らかいです。

でしょ?

>そして、今わたしが感じるのは、……コウさんの村上春樹さんへの思いの深さです笑

バレバレですね(笑)
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