デニム中毒者のたわごと

Literature

リチャード・ブローティガンを読む その6

 
今回はブローティガンの詩集も翻訳されている中上哲夫さんの執筆文を紹介します。題して「釣りとボードレール」サブタイトルとして「――ブローティガンと断章」とあります。

リチャード・ブローティガンとわたしは、くらべるのもおこがましいが、うまれもそだちもまるっきりちがう。一方は太平洋のむこうのワシントン州のタコマでうまれ、ティーンエイジャーになるとサンフランシスコにでてきて、詩や小説をかきはじめる。そして、一九六七年にでた『アメリカの鱒釣り』でいちやく人気作家になるが、一九八四年、十冊の詩集と十一冊の小説をのこして四十九歳で自殺する。



それにたいして一方は大阪でうまれ、各地をてんてんとし、へたな詩をかき、ノーてんきに「まだ」いきている。(へたな詩、ノーてんきというのは、もちろん、けんそんだけど。)--こうみてくると、両者のあいだにはほしんど共通するものはみあたらない。ところがよくよくかんがえてみると、わたしたち二人のあいだにも共通するものがふたつだけあったのだ。
ひとつは釣りで、ブローティガンの代表作『アメリカの鱒釣り』には四十七篇の短い文章がおさめられていて、そのうちじつに半数ちかい二十一篇で釣りに言及している。だが、しかし、そのことよりも、「永劫通りの鱒釣り」にでてくるつぎのような詩によってこそこの本は釣りの文学になっているといいうるのだ。


    もうたくさんだ
 釣りをはじめて はや七年
   一度も鱒を釣りあげていない。
   針にかかった鱒は残らずとり逃がした。
    やつらは ジャンプで逃げる。
     身を捻って 逃げる。
     あるいは のたうち
  あるいは はりすを切り
     あるいは ばたついて
     畜生! 逃げやがる。
小生 かつて ただの一度も 鱒に触れた
 ことさえないのだ。(以下略)       (藤本和子訳)


わたしにはこの釣り人の気持ちがよくわかる気がする。じっさい、名人とか釣聖とかよばれている(うそつけ!)わたしにしたところでいつもつれるとはかぎらない。それに、釣りはつれればいいというものでもないのだ。つまり、つれないのが釣りであって、この「永劫通りの鱒釣り」という文章には〈アロンゾ・ヘイゲンの鱒釣り日誌〉というのがのっているけど、なにがすごいといって、つった鱒の数でなくて、つり逃した鱒の数がえんえんと記録してあって、それによって『アメリカの鱒釣り』というユニークな書物は釣りの本になっているとさえいえるのだ(『アメリカの鱒釣り』が本屋の釣りのコーナーにあったという話をきいたことがある。わたしのような文学的なアングラーならいざしらず、もし釣果主義の釣師がかったとしたらちょっと悲惨なことになったかもしれないね )。
一方、この本のかくれた主題はクリークなのではないか、というおもいも同時にする。つまり、釣りはこの本にあっては目的というよりもむしろクリークをたずねるための口実であって、『アメリカの鱒釣り』はオンボロ車にあかんぼと釣具(タックル)をつんでクリークからクリークへとアメリカじゅうを旅する話だということもできるとおもう。その場合、この文明に背をむけたような旅は、マーク・トゥエインの『ハックルベリー・フィンの冒険』やヘンリー・デヴィッド・ソローの『ウォールデン』、ゲイリー・スナイダーの《裏の国(バック・カントリー)》に通じる世界となる。








すなわち、『アメリカの鱒釣り』はいっけん異端のようにみえて、じつはアメリカ文学の大きな流れ(ストリーム)にながれこむクリークだったのだ。
ブローティガンとわたしのもうひとつの共通点はシャルル・ボードレールで、『ピル対スプリングヒル鉱山事故』(一九六八年)という詩集に九篇の詩からなる〝ボードレール詩篇〟を発見したとき、ボードレリアンのわたしはうれしくておもわず三〇センチもジャンプしたほどだった。(いつも不思議におもうのだけど、ランバルディアンというとかっこよくてボードレリアンというとやぼったくおもわれるのはなぜだろう。)そして〝ボードレール詩篇〟とは例えばこんな詩さ。


 ボードレールはいつもわが家に
 やってくるとぼくがコーヒーを
 ひくのをじっとみていたっけ。
 一九三九年のことで
 ぼくらはタコマの
 スラムにすんでいた。
 母がいつもコーヒーひきに
 豆をいれた。
 ぼくは子どもで
 いつもハンドルをまわしながら
 手まわし風琴をまわしているのだ
 とおもうことにした、
 するとボードレールはいつも
 猿のふりをして
 ぴょんぴょんはねては
 錫のコップをさしだしたものさ。               (一九三九年)


気むずかしい顔をしたボードレールが猿のふりをしてぴょんぴょんはねる姿を想像するとたのしくなる。「貧乏人を撲り殺せ!」といったボードレールもまずしい少年をみておどける気になったのかもしれないね。
とまれ、この〝ボードレール詩篇〟のボードレールは、ヒッチハイカーのイエスをひろい、サンフランシスコのどや街でアル中とワインをのみ、花をはさんだハンバーガーをうり、二十一石のシャム猫を宝石店でかい、夢想にふけり、阿片をすいながらニューヨーク・ヤンキースとデトロイト・タイガースとの野球試合を観戦し、医者にばけて精神病院ではたらき、虫や鳥の葬式にたちあってお祈りをとなえる。――そこにたちあらわれるボードレールは、さみしげで、風変わりで、寡黙な詩人像だ。だが、おもうに、それは同時にブローティガンそのひとでもある。国も時代もまったくことなった二人がそこでオーバーラップし、ひとつにかさなるのだ。つまり、いまにしておもえば、「つねによいしれてあれ」「この世のほかならどこへでも」と〝ボードレール詩篇〟のなかでさけんでいたのは、だれあろう、ブローティガンそのひとだったのだ。

つづきます。



   

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

~ Trackback ~

トラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)