デニム中毒者のたわごと

Literature

リチャード・ブローティガンを読む その5

 
今度の執筆者はフランス文学者の新倉俊一さんです。

「アメリカの即興詩人」

アメリカの現代詩についてはだれよりも消息通だった鍵谷幸信が、一度だけ判断をミスしたことがある。それはブローティガンの詩をクソミソにこきおろしたことだ。彼はウイリアムズの詩をほめそやしたいばかりに、ブローティガンを芸術以下の大衆詩のイカサマだときめつけたかったにちがいない。しかし、これはひいきの引き倒しと言うべきだろう。なぜならブローティガンの短い口語的なスタイルは、もともとウイリアムズから由来したものだからである。実際にブローティガンは、自分の敬愛する大先輩にたいして、つぎのようなユーモラスな献辞をささげている。

    九月三日
    (ウイリアム・カーロス・ウイリアムズ博士に関する
     勘違い
     昨夜はひどい不眠症で
     過去、現在、未来のことをこまごまと
            思い描いた。
     えい、糞、ぼくらは心の隅々までほじくり返したのだ!
     それからぼくはその日がウイリアム・カーロス・ウイリ
アムズ
     博士の誕生日だったのを思い出して夜明け近くまでずっ
      と楽しい
       気分ですごしたのさ。

      付記。
      九月三日はウイリアム・カーロス・ウイリアムズ博士
        の誕生日
      ではない。ガールフレンドの
      誕生日だ。
      ウイリアム・カーロス・ウイリアムズ博士は
      一八八三年九月十七日に生まれたのだった。
      おもしろい勘違いだな。         (中上哲夫訳)

    
このようになんの変哲もない日常生活の感想を詩にすることは、ウイリアムズの専売特許である。私たちはすぐに「赤い手押し車」とか「数字の5」とか「ちょっと一言」などの短詩を思い浮かべるだろう。
しかし生涯きまじめな医者だったウイリアムズにはユーモアが乏しい。私はそれが詩人としての彼の短所だと思う。同じモダニストでもエズラ・パウンドはもっとウイットに富んでいた。ウイリアムズに欠けていて、ブローティガンにあるものは、まさにユーモアあるいはウイットの精神で、彼の作品にはボードレールやシェイクスピアをパロディ化したものが多い。たとえば「ロメオとジュリエット」はこんなふうである。


  きみがぼくのために死ぬなら
  ぼくはきみのために死のう

  ぼくたちの墓は
  コインランドリーに服をもっていく
  恋人たちみたいに見えるだろう

  洗剤を持ってきてくれないかい
  ぼくが漂白剤を持っていくからさ          (高橋源一郎訳)


ウイットの効果は簡潔さにある。だからブローティガンの詩はみな短く、どれもが奇抜な発想から成り、オチをそなえている。たとえばウイリアムズには「寡婦の春の歎き」という二十八行の詩があるが、ブローティガンは同じテーマをたった三行で処理してしまう。

  お隣に
  薪を借りにゆくほど
  寒いわけではないけれど。              (池澤夏樹訳)


これなどは俳句的な即興性のいい例だろう。俳句と言えば、彼には「俳句救急車」という奇抜な題名の詩もある。

  ピーマンの一片が
   落ちた
  木製のサラダ・ボウルから――
   それで?                         (池澤夏樹訳)

最初の三行は俳句の真似をしているが、そのあとに「それで?」という茶化したことばをつけ加えるところが、いかにもアメリカ人らしいユーモアだ。そのうえ「ぢゃあ、救急車でも呼ぼうか」という冗談をこめた「俳句救急車」という題名のひねり具合が、なんとも秀逸である。ウイリアムズの即物的な「数字の5」などは、それに比べると退屈極まりない。『突然訪れた天使の日』(原題はLoaging Mercury with a Pitchfork,1976)のあとがきで、訳者の中上哲夫は「ひょっとしたら、ブローティガンは“HAIKU”を詩でかいていたのかもしれない」と、示唆に富む感想をもらしているが、確かにそう考えられるふしがある。
同時にまた、彼のウイットの種類はヤンキー・ユーモアや英詩の伝統にもたどることができるだろう。ジェイムズ・サーバーとか、オグデン・ナッシュとか、エドワード・リアなどの名まえが、すぐに頭に浮かぶ。リアは「ノンセンスにおけるシュールレアリスト」と呼ばれたが、ブローティガンにもシュールレアリスムの影響が少なくない。「ピル対スプリングヒル鉱山の落盤」とか「きみの出発対ヒンデンブルグ号」「処女の如ききみの恥じらい対わたしの詩」という彼の好む対置は、「手術台の上のミシンとコウモリ傘との不意の出逢い」と同じたぐいの、シュールレアリスムの常套手段だ。最初の例をここに引いてみよう。

  きみがピルをのむたびに
  鉱山の落盤事故がおこる。
  きみの中で失われた
  たくさんの人命をぼくは思う。              (池澤夏樹訳)

関係のないニ物をかけ合わせて、予期しない結合をうむ手法は、上のようなアナロジーばかりでなく、彼のノンセンスに近い題名にもよくみられることだ。先ほどの「俳句救急車」とか、「ゼロックス・キャンディー」「私立探偵レタス」など、あげたら切りがない。要するにブローティガンの言葉には、つねに楽しい仕掛けがしてあるのだ。西脇順三郎流に言えば、日常の関係に「かすかな爆発」を起こさせて、人生に可憐な水車を回わすことを、彼はねらっている。そんな可憐な水車など人生になんの益もない、と断定するひとたちは、ブローティガンばかりかライト・ヴァースの世界に無縁の衆生である。
社会とか現実とかを、いつも深刻にふまえたものばかりが、詩だとは限らない。彼の同時代のビート詩人たちの多くも、あまり深刻なところがすぎて、ブローティガンのような軽みをうみだしていない。たとえばコヨーテについて、だれが「コヨーテ細胞」のような詩を書いただろうか。

  マツの木陰から寂しげな咆哮が聞える
  指紋の蔭にいるコヨーテさ             (高橋源一郎訳)


こんな詩をミニマリズムの典型として、一笑に付すひともいるだろう。ギンズバーグの『吠える』は、自分をしいたげられた世代の予言者と仕立てて、挫折したアメリカの夢について異議申し立てを行った。つまり、ギンズバーグは、ホイットマン以来の公的なアメリカの夢の重荷に押しつぶされながら、傷ついた動物のように吠える声を上げたのだ。しかし、「ベアマウンテンのウォルト・ホイットマン」の詩でルイ・シンプソンも歌っているように、「いまや、アメリカの重荷はすべて/キャンセルされ」て、庶民はかえって、「ホッとした」のである。



だから六十年代のブローティガンの世代は、現実への幻滅を、もはやギンズバーグのような悲愴な歌い方によってではなく、軽やかな幻想と諧謔によって処理するほうを好んだ。その意味でブローティガンは、だれよりもヒッピーたちのシニシズムと夢想癖を代表する即興詩人である。たとえば、一九四二年六月二六日付「サンフランシスコ・クロニクル」の見出し「エジプト深く、ロンメル軍は行く」につけた、彼の詩はこんな調子だ。

 ロンメルは死んだ
  砂漠の中をどこまでも進んだ兵士たちは行方不明
  時々、蜃気楼になって出現し
  いまだにどんぱちやってるらしい
  戦車も砂に埋もれたきりさ
  いやになっちゃうぜ               (高橋源一郎訳)


六十年代のフリーセックスの世代に生きた彼の詩には、あけすけな愛の詩も少なくない。私にはやはり、つぎのようなウイットのきいた詩のほうが楽しい。題名は「発見」。

  畳まれたヴァギナの花びらが開く
  まるでクリストファー・コロンブスが
  靴を脱ぐように。

  船のへさきが
  新しい世界に触れる以上
  美しいことがあるだろうか?           (池澤夏樹訳)


ブローティガンに会ったひとはだれも、彼の人柄の「やさしさ」を言う。リルケのような不器用な天使で、彼は現実の上を蟻や虫をふまないように歩いた。そして、愛についてばかりでなく、蝶についても、こんなやさしい詩を書いている。題して「数十秒」。

  生きて何事かを考えるにはあまりに短い時間
  だけど、ぼくはまさにそれだけの時間をこの蝶に
      費したのだ。

  二十秒という時間                    (中上哲夫訳)


この詩には「モンタナ州パインクリークの暖い午後/九月三日」という付記がついている。そして、同じ西部の山小屋で十一年後に生命を断った。

彼の人柄のやさしさを伝える詩には、「フラワーバーガー」という詩もある。これは超自然主義者で無為の詩人だったボードレールに自分を引きつけて、フラワー・チルドレンの世代の心情を代弁したものである。


  ボードレールは
  サンフランシスコに
  ハンバーガー・スタンドを開いた。
  そしてパンの間に
  花をはさんだ。
  人が店にやってきて
  言った、「ハンバーガーを
  一つ、タマネギを
  たくさん入れて」
  ボードレールはかわりに
  フラワーバーガーを出し
  人々は言ったものだ、「いったい
  これはどういうたぐいの
  ハンバーガー・スタンド
  なんだ?」                          (池澤夏樹訳)


このほかにもボードレールを材料にした一連のパロディの詩がある。ブローティガンはギンズバーグのような世直しの運動家でなく、良かれ悪しかれ、現実をあるがままに受け入れた無為の詩人だった。ユーモア、あるいはウイットは、幻滅から自分を救うための、必要な安全装置だったにちがいない。

今回はここまで。

つづきます。



   

~ Comment ~

詩 

二十秒という人生の長さからするとあまりにも短い時間を蝶のために費やした、と言い切りのようなそれでいて名残りがある感じがいいと思いました。
それにしても、ほかのいかなるものもそうかもしれませんが、詩の評価もいろいろあるものなのですねえ。そこがおもしろいところなのでしょうが。
そう考えると途方もないけど、おもしろいなあって思えるものが増えるといいです。

評価いろいろ 

まおまおさん、おはようございます^^

>二十秒という人生の長さからするとあまりにも短い時間を蝶のために費やした、と言い切りのようなそれでいて名残りがある感じがいいと思いました。

はい。

>それにしても、ほかのいかなるものもそうかもしれませんが、詩の評価もいろいろあるものなのですねえ。そこがおもしろいところなのでしょうが。

たしかに。けれど、そのあやふやで曖昧な他者の評価を経ない限り世に出られないわけですから、因果なものです。

>そう考えると途方もないけど、おもしろいなあって思えるものが増えるといいです。

同感です。
管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

~ Trackback ~

トラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)